古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

「危ない地域」と「危なくない地域」の境界線が消失/『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』洋泉社ムック編集部編

 様々な人の色々な意見を知ると脳が刺激される。事件が発生するたびに、「起こるべくして起こった」なあんて論調は随分と身勝手にも思えるが、事件をも含めた社会に我々が生きているという現実は確かなものだろう。


 事件は既に起こってしまった。となると、その事件には何らかの必然性があったという前提で、皆が物語を紡ぎだす。詰め将棋を反対にしたようなものだ。何手までさかのぼることができるか――ここにコメンテーターの勝負どころがある。


 殆どの事件の場合、まず俎上に載せられるのは家族だ。出来るだけ劣悪な関係性が求められる。人々は納得できる物語を求めているのだ。「ああ、やっぱりな」と必要条件と十分条件が満たされた時、善男善女は何とか安堵することが可能となる。メディアは手を叩いて拍子を取る。「ハイ、安・堵・徒労輪」。そして、想像力の餌食となる容疑者が異質な存在であればあるほど、社会の恒常性が維持できる仕組みになっている。


 フムフムと読み進んでいて、ギョッとさせられたのがこれ――

安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学』でも書きましたが、昔は生活空間の中で「危ない地域」と「危なくない地域」が明確に分かれていました。「危ない地域」がいくらあっても自分が行かなければ怖くなかった。そもそも「治安が悪い」というのは警察の手が届かない地域がどれだけあるかということです。日本はそうした地域が少なかったから非常に治安はよかったのですが、むろん、警察の手の届かない場所があってもそんな場所へ行かなければ一般人には関係がないわけです。
 それでは犯罪が減少傾向にある中で、なぜ体感不安を感じるようになったのか? それは「危ない地域」と「危なくない地域」、すなわち、繁華街と住宅街、昼と夜といった境界がなくなったからだと思います。たとえば、最近話題になっているコンビニエンスストアの終夜営業規制、これは非常に大きいのです。治安のためにはむしろコンビニエンスストアは開いていたほうがいいという意見がありますが、夜に外を出歩く人が減れば治安は格段によくなります。治安をよくするための最強の手段は夜間外出禁止令であることを思い出してほしい。警察の取締りが、格段に楽になります。夜歩いている人は、皆不審人物ですから。
河合幹雄


【『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』洋泉社ムック編集部編(洋泉社MOOK、2008年)以下同】


 まるで、学校の先生が冷静に方程式を解くような教え方で、河合氏は解答を示す。三手詰めっぽい。眉ひとつ動かすことなく、「自由というのはですね、リスクという包装紙でくるまれているのですよ」と言ってるような印象だ。


 あまり考えずに読むと、「ははぁーーーっ」っとひれ伏してしまいそうだが、少しばかり頭を働かせると、これはこれで難しい問題を抱えていることに気づく。「じゃあ境界線は、はっきりしていた方がいいんですかい?」と質問したくなるよね。


 河合氏は、続けてこう言う――

 ですから、今回も様々な意見が言われていますけど、仮にもっと人間関係の濃密な社会に戻すことができたとしても、誰かが加藤容疑者に注意していたら、今度はその人が殺される可能性が高い。通り魔事件は減るだろうけど、一家殺しは増えるという、とても皮肉な結果がおそらく待っているのです。実際、殺人事件が減少しているのは、むしろ、人間関係が希薄になってもっとも多かった子殺しなどのケースが激減したからなのです。そしていまは配偶者殺しがトップです。


 結局のところ、人間社会には一定数の人殺しがつきものであり、犠牲者は時代の傾向によって異なるんだよって話になっている。「仕方がないんですよ。人間なんですから」と河合氏なら言いそうだ。でも、自分が殺される側になったら、多分そんなことは言わないだろう。我々もそうだ。いつだって見物人であって、当事者になるとは夢にも思わないのだ。ここが恐ろしい。