古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

民族という概念は「創られた伝統」に過ぎない/『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優

 まずは、1050円という値段に抑えた扶桑社に拍手を送りたい。文章で行う人生相談は不利なところがある。相手の表情や声がわからないためだ。それゆえ答える側はどうしても一般論に傾きやすい。私は今まで開高健北方謙三のものを読んだが、面白かったという記憶がない。雑誌で連載される以上は「読み物」となるため、相談も答えも散漫で無責任だと読むのが苦しい。本当は作家の別な顔にスポットライトを当てるのが編集部の目的なのだろう。


 売れっ子作家という点では共通しているが佐藤優は違う。何と言っても佐藤は獄に繋(つな)がれた経験がある。権力との攻防に身をさらした人物は、一線を画した人生観・社会観を見出す。それは、彼等がビッグ・ブラザーを知ってしまったがためだ。


 佐藤の博覧強記と国際センスはいつもと変わらない。人々の相談に対して国際情勢を語り、神学を引用し、全力で応じている。佐藤が本気であることはページをめくって直ぐに気づく。「求婚されているが躊躇している」という女性からの相談に対し、「手鏡で自分の顔とオマンコをよく見ることです」(趣意)と答えているのだ。佐藤は決して馬鹿にしているわけではなく、「現実を知れ」という強烈なメッセージが込められている。そしてそれが、「もっと素敵な男性が現れるかもしれない」と考えている女性の甘さや思い上がりを一刀両断するのだ。このように、佐藤は実務家としての態度を貫いている。


 対中憎悪を持つ若者からの質問に対しては、次のように応じる――

 人間は自らの利害得失を冷静に計算できなくなると、周辺に次々とトラブルを呼び寄せるようになります。


【『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優〈さとう・まさる〉(扶桑社、2009年)以下同】

 民族という現象は実に厄介です。誰にでも眼、鼻、口、耳があるように、民族的帰属があると考えるのが常識になっていますが、このような常識は、たかだか150年か200年くらいの歴史しかないのです。アーネスト・ゲルナーたちの研究(※『民族とナショナリズム岩波書店、1983年)の結果では、民族というものが近代的な現象であると、はっきりとした結論が出ています。民族的伝統と見られているものの大半が過去百数十年の間に「創られた伝統」に過ぎないのです。


 アイデンティティがあやふやな人々の砦(とりで)は国家となる。「お前は何者なんだ?」と尋ねられた時に、「俺は日本人だ」という程度の規定しかできないからだ。彼等には確固たる自分がなく、「俺は俺だ」と大きな声で言うことができない。


 日本人としての自覚は、外国を意識することで生まれる。歴史を振り返ってみよう。日本人が嫌でも日本人を意識したのは、間違いなく「戦争」の時だ。国威発揚国旗掲揚、戦意高揚、欲しがりません勝つまでは、ときたもんだ。で、最後は一億玉砕。つまり、国家と命運を共にするということは自滅することを意味しているのだ。俺は嫌だね。


 国家は戦時において死ぬことを強要し、平時において税金収奪装置として機能する。証拠を一つ示そう。我々は自分が支払っている税金の総額を知らない。所得税や住民税は知っているものの、ありとあらゆる財やサービスに含まれる税率を自覚していない。酒類や煙草に至っては二重三重の税が掛けられている。


 権力者は民族主義が大好きだ。国民がまとまってくれるからね。それゆえ、国家周辺で諸外国の不穏な動きが起これば、実に好都合だ。口角泡を飛ばして危機感を煽り、専守防衛に備え、国内における外国人犯罪をフレームアップすることに余念がない。


 敵は多ければ多いほど好ましい。国民の民族意識はいやが上にも高まる。そして、右翼の街宣車はボリュームをアップしながら街中を疾走する。


 私は日本人である。だが、これは私が選択したものではない。将来、私がアメリカ人になることも、中国人になることも可能性としては残されている。そもそも、DNAのレベルでは民族的な違いというものが確認されていない。


「お前にも日本人の血が流れているはずだ」――確かにそうなんだが、実は過去にフランスで輸血をしてもらったことがある(ウソ)。