古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

G・H・ハーディはラマヌジャンを警戒した/『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル

 ハーディは当代きっての数学者であった。しかし、このケンブリッジ大学教授ですら、ラマヌジャンの数学理論を「狂人のたわごと」程度にしか思っていなかった。ハーディ以外の数学者にもラマヌジャンは手紙を出していたが、誰一人としてまともに扱おうとする者はいなかった。そう。ラマヌジャンの頭脳は桁外れだった。

 賢明な警戒だった――溝は確かに深かったのだから。ハーディにすれば、ラマヌジャンの送りつけてきた定理の山はまるで異郷の森であった。ひとつひとつ木であることはわかるのだが、あまりに珍種なのでどこか他処の星からやってきたもののように思われたのだ。彼をまず驚かせたのはラマヌジャンの定理の奇抜さであって、その輝かしさではない。「このインド人は一種の狂人なのだろうか?」。友人のスノウによると、ハーディにとって、見知らぬ人から奇想天外の原稿を送りつけられるのは日常茶飯事だった。大ピラミッドの預言の謎解きをしたとか、大シオンの啓示の意味がわかったとか、シェークスピア劇にベーコンが挿入した秘密の暗号を解読したとか……


【『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル:田中靖夫訳(工作舎、1994年)以下同】


 ハーディは、同僚のリトルウッドの手を借り何日もかけてラマヌジャンの数式の確認作業に取り組んだ。


ラマヌジャン

「お初にお目にかかったこれらの定理が最高クラスの数学者にしか創造しえないことは一目瞭然だった」。そして、ハーディ流の典雅な言い廻しでこう付け加えている。「これらの定理は正真正銘のものに違いない。もしそうでないとすれば、一体誰がそれを捏造(ねつぞう)するだけの想像力をもっているというのか」。


 こうして、インド国内では理解されることのなかったラマヌジャンに、世界の扉が開(あ)けられた。後年ハーディは語った。「私の生涯最大の業績は、ラマヌジャンを発見したことだった」と。だが、そうではなかった――

 ラマヌジャンの真価を見抜く人物がインドにいなかったのも別段驚きではない。最上級の数学教育を受けたハーディは当時イギリス最高の数学者であり、最新の数学思想にも目を配り、しかもラマヌジャンが開拓した分野は彼の専門領域だった。その彼でさえラマヌジャンの定理に接するや、「このようなものは一度もみたことがない」と当惑したのだから。ラマヌジャンの研究を理解できず、自らの判断に自信がもてなかったのはインドの人たちばかりではない。ハーディとて同じなのだ。実のところ、今日彼の名誉とされているのはラマヌジャンの天分を見抜いたことではない。懐疑主義という己の壁を自ら打ち崩したことなのである。


 数学という知の系譜が出会うべくして、二人を邂逅させたのだ。いつの時代も、運命という偶然の底に流れる血脈がつながった時、人類史は大きく様相を変えてきた。


 数学がラマヌジャンを世界の檜(ひのき)舞台へ引き上げた。そして、ラマヌジャンは不遇の中で死を迎えることになる。何という運命の悪戯(いたずら)か。天才数学者の悲しい人生。この落差がラマヌジャンの存在を一層際立たせている。