数の概念/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ

「数を数える」営みが突然意識に立ち現れてくるテキスト――

 オオカミの骨は石器時代スーパーコンピューターだった。ゴッグの先祖は2まで数えることすらできず、ゼロなど要らなかった。数学が生まれたときには、一つとたくさんを区別することしかできなかった。原始人は槍の穂先を一つもっているか、たくさんもっているかのどちらかだった。つぶしたトカゲを1匹食べたか、たくさん食べたかかのどちらかだった。一つとたくさん以外の数を表現するすべはなかった。やがて原始言語が発達して、一つ、二つ、たくさんを区別するようになり、ついには、一つ、二つ、三つ、たくさんを区別するようになったが、それより大きな数を指す言葉はなかった。今なお、このような欠陥を抱えている言語がある。ボリビアのシリオナ・インディオとブラジルのヤノアマ族は、3より大きな数を表す言葉をもっていない。その代わり、「たくさん」という意味の言葉を使う。
 数というものの性質のおかげで――数を足し合わせて、新たな数をつくりだすことができる――数体系は3で止まってしまうことはない。しばらくして、賢い人が数詞を並べて、新たな数をつくりはじめた。今日ブラジルのバカイリ族とボロロ族が用いている言語では、まさにこのように数がつくられている。この人々の数詞体系は、「1」、「2」、「2と1」、「2と2」、「2と2と1」というようになっている。2をひとかたまりにして数を数えるのだ。数学者はこれを二進法と呼ぶ。


【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ/林大訳(早川書房、2003年)】


 非常に考えさせられる文章だ。“概念”は多様化し複雑化する。これを進化というのだろう。現代では十進法が基本だが、時計は十二進法、デジタルは二進法と複数の概念を使用している。なんて器用なんだ。


 我々にピンと来る単位は国家予算の「兆」くらいまでだろう。日常で「京(けい)」以上の単位を使うことはない(それ以上は「日本の単位接頭語」を参照されよ)。


 ところが、科学の世界では天文学的数字が取り扱われる。例えば、素粒子の寿命は長短様々で、電子は「6.4×10の24乗」年以上で、タウ粒子は「290×10の-15乗」秒となっている(「高エネルギー加速器研究機構」による)。


 数の概念が多様化されると、人間の幸不幸も多様化されることだろう。あるいは複雑化か。膨大な数字のはざ間で我々は、幸福も不幸も感じ取れなくなっているような気がする。というよりも、平均からの乖離(かいり)という数学的概念でしか幸不幸を判断できなくなったところに、現代社会の不幸がある。マネーという得点で勝ち組・負け組に峻別されてしまう。


 結局のところ、「数の概念」は多量になっただけで、豊かになってはいないのだろう。これは使う側の問題だ。数に罪はない。


異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)
(※左が単行本、右が文庫本)