ソクラテスやピュタゴラスのもとでは、多くの女性が学んでいた。しかしその後の女性からは、学ぶ機会が奪われた。中世にあって西洋では聖職者にならない限り、男性ですら専門的な勉強はできなかった。そして、魔女狩りの嵐がよりいっそう女性蔑視を駆り立てた。何かを学んでいるというだけで魔女の烙印を押され、拷問の果てに殺された。学問は、キリスト教会が管理していた。19世紀のイギリスですら「女性が本を買うこと」はなかった。
科学は現象の因果関係を追及し、数学は真偽を究める。科学と数学がやむにやまれず駆け出すと、いきなり神の影が薄くなった。ねえ神様、いったいどこにいるの?
物理学の分野ではアインシュタインの相対性理論、ボーアの量子力学とハイゼンベルクの不確定性原理。化学の分野ではプリゴジンの非平衡系の力学。生物学の分野ではワトソン=クリックに始まる分子生物学と木村資生(もとお)の分子進化の中立説。そして数学の分野ではゲーデルの不完全性定理。などなど。
これらの諸理論は、今世紀の科学と思想を語るうえで絶対に欠かせないものです。さらに興味深いのは、これらの理論がどれをとっても、それぞれの分野で、ある種の“否定性”と限界を示し、理性や“知”の絶対性という19世紀まで広く信じられてきた近代の“神話”を、根底からくつがえしてしまったという点でしょう。
ここでいう「神話」とは、西洋キリスト教のご都合主義と解釈していいだろう。そこには民衆を教会に隷属させる狙いがあった。彼等は「神の僕(しもべ)」と称するがゆえに、どうしても「自分達の僕」を求めるようになってしまう。
科学は教会に右フックと鉄槌を加えた。そして、ニーチェが神を殺害したのだ。
1955年、アメリカのアラバマ州で黒人の乗客が、バスの座席を白人に譲るよう運転手から促された。4人のうち3人は直ぐに立ったが、一人の女性は静かに答えた――「ノー」。ローザ・パークスのこの一言から、バス・ボイコットが燎原の火のように広がった。パークス女史はキング牧師の盟友となり、公民権運動をリードした。
「理不尽なるものへの否定」――人類の歴史がよりよく変化する場面に共通する原理である。おかしなものに対する怒り、現状に甘んじる態度を打ち破る勇気、自分の命すら辞さないほどの真剣な覚悟。学ぶことに、それらのものが求められていた時代が確かにあったのだ。果たして平穏無事が望ましいことなのか――。時々わからなくなることがある。