ラマヌジャンの名前は知っていたが、功績の内容についてはまったく知らなかった。ところが、藤原正彦の文章を読んで興味を掻き立てられた――
ただ、ラマヌジャンの公式の放つ異様な輝きを、これらだけに帰着させようとするのは、単に我々がほかの要因を思いつかぬ、というだけのことかもしれない。ラマヌジャンは「我々の100倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない」という天才なのである。アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、2年以内に誰かが発見したであろうと言われる。数学や自然科学における発見のほとんどすべてには、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。だから「10年か20年もすれば誰かが発見する」のである。
ラマヌジャンの公式を見て私が感ずるのは、まず文句なしの感嘆であり、しばらくしてからの苛立ちである。なぜそのような真理に想到したかが理解できないと、その真理自体を理解した気に少なくとも私はなれないのである。それは誰かが、我が家の柿の木の根元に金塊が埋まっていると予言し、それが事実だった時の気分である。事実は認めても、予言の必然性や脈絡をたどれぬ限り苛立つ。
数学では、大ていの場合、少し考えれば必然性も分かる。ところがラマヌジャンの公式群に限ると、その大半において必然性が見えない。ということはとりもなおさず、ラマヌジャンがいなかったら、それらは100年近くたった今日でも発見されていない、ということである。
凄い。まったく想像もつかない領域である。多分、「!」でしか表現できない人物なのだろう。「閃(ひらめ)き」ではなく「悟り」。ラマヌジャンは数字と戯(たわむ)れ、遊ぶようにして膨大な定理を発見した。
1887年12月22日、ラマヌジャンはインドの極貧バラモン階級の家に生まれた。幼少の頃から天才の片鱗を見せた。奨学金を得て大学に進学するも、数学に熱中するあまり他の科目がおろそかになって落第。遂には奨学金が断たれ、退学となる。それでも彼は数学を手放さなかった。
ごく稀れに、彼は自分を落第させた大学へ立寄って、本を借りたり、教授に会ったり、講義をちょっとのぞいたりするときもあった。お寺を散策するときもあった。しかし、たいていはサーランガーパニ・サンジーニ横丁にある家のパイアルに腰をかけて勉強していた。両足を胸のほうへ引き寄せ、膝全体で大きな石板を支えながら、硬い石筆のカリカリと刻む音も聞こえないかのように、一心不乱にそれを走らせていた。牛どもの行進、サリーをまとった女たちや荷車を引張る半裸の男たちのざわめき。そういった、通りの騒々しい人間たちの営みの間近にいながら、彼は静穏なる孤島で独り気儘(きまま)に暮らしていた。すでに断念した試験や勉強したくない科目に煩わされることもなかったのである。
この石板から『ノート』が生まれた。ラマヌジャンは雌伏の数年間で、人知れず飛翔していた。清書された『ノート』には4000もの定理、系、例題が“数学の未知なる宇宙”を構築していた。
インド国内でラマヌジャンの数学を理解できる人物は皆無だった。彼は知人に勧められるままにイギリスの数学者数名に手紙を書いた。その一通がケンブリッジ大学のG・H・ハーディの目に留まった。ハーディは世界最高ランクの数学者だった。そのハーディですら、ラマヌジャンの定理を理解するのに難渋した。他の数学者は興味すら示さなかった。ハーディがやっと理解できた時、彼は驚愕に震えた。
ハーディとの出会いによって、ラマヌジャンは日の目を見る。インドから国費留学生としてイギリスへ渡り、かのニュートンも学んだトリニティ・カレッジで研究を開始した。
それから、わずか6年後にラマヌジャンは亡くなる。ヒンドゥー教がラマヌジャンの精神をがんじがらめにしていた。西洋の風習に馴染めず、菜食主義のため食事もままならなかった。インドに残してきた若い妻と母親は反(そ)りが合わなかった。ラマヌジャンは一度、イギリスの地下鉄に身を投げたこともあった。そして結核が彼の身体を蝕んだ。
1976年、渡英したアメリカの大学教授ジョージ・アンドリュースによって、偶然『失われたノート』が発見される。ラマヌジャンの魂が再び数学界を揺るがした。
決して読みやすい本ではないが、ラマヌジャンの評伝としては決定版といってよいだろう。多分、ロバート・カニーゲルは物語性よりも網羅に重きを置いたことと想像する。もう一点ケチをつけておくと、訳者である田中靖夫がやたらと小難しい漢字を多用していて、より一層読みにくくしている。
それでも尚、ラマヌジャンの輝きが失われることはない。天才に触れたければ本書をひもとくがよい。