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数学者の名言/『新装版 数学・まだこんなことがわからない 難問から見た現代数学入門』吉永良正

 数学の未解決問題を初心者にわかりやすく解説した良書で、講談社出版文化賞を受賞したのも頷ける。数式を無視しても十分堪能できる。


 美という次元において、数学はもっとも宗教に近い学問であると私は思っている。また、数学が対象とする量、構造、空間も極めて哲学的な示唆に富んでいる。


 初めて知ったのだが完全数友愛数、はたまた婚約数というのがあるそうだよ。不思議な規則性、法則性が実に刺激的だ。


 そして本書の極めつけは数学者による名言の数々である。さすがに定理を追求する人々の言葉だけあって味わい深い。しかも簡潔だ。

「未解決問題があるかぎり、科学は生気に満ちている。問題の欠乏は科学の死を、すなわち独自の発展の停止を意味する」ヒルベルト


【『新装版 数学・まだこんなことがわからない 難問から見た現代数学入門』吉永良正講談社ブルーバックス、2004年)】

 偉大な数学者ダーフィット・ヒルベルト(1862-1943)は、1900年にこう宣言しています。
「われわれは決して止むことのない呼び声を、われわれの内に聞く。ここに問題がある。その解答を求めよ。解決は、純粋理性によって得られる。なぜならば、数学には、無知であり続けることは存在しないからである」。

 結局、真にすぐれた問題とは、数学者がその解決に取り組むなかから、まったく新しい数学的【方法】と、新しい数学的【対象】とを必然的に産み出す問題であるといえるのです。つまり、数学者は一つの問題をとことんつきとめることで、数学的視野の拡大に到達するわけです。(中略)
 現代数学の巨人アンドレ・ヴェイユ(1906-98)が、『数学の将来』のなかで述べた次の言葉ほど、数学の発展のダイナミズムと、数学にとっての未解決問題のもつ意義とを、みごとに表現したものはない、と私は思っています。
「将来の大数学者は、過去においてもそうであったように、踏み固められた道を避けるであろう。彼らは、われわれが彼らに残す大きな問題を、われわれの想像の到達できない思いがけない近づき方で、まったく姿を変えて解くであろう」。


 数学を言語と考えるならば、数々の定理が将来どのように使われるかは誰にもわからない。


数学にはネイティブはいない:「語学としての数学」完全攻略=風景+写経アプローチ
数学は、ある種の言語についての学である


 森重文の言葉からは、数学世界の険しさがひしひしと伝わってくる──

「趣味は?」と聞かれた森(重文)は──数学者に向かって、随分、不可思議な質問をするインタビュアーもいるものだと、そのとき私は思ったのですが──、こう答えていました。
「無趣味に近いです。いったん問題を考え始めたら、他のことがまったく考えられなくなるから」。
 もう少し、森語録を拾っておきましょう。
「研究は主に自宅で深夜、家族が寝静まってからやります。途中で考えを中断されると、なかなか元に戻れませんから。朝7時までかかることもある生活が2〜3ヵ月続くと、堅気の生活に戻らなくてはと思います。時差に悩みますので」。
「数学には科学技術の基礎と、芸術という二面性があります。ぼくの数学の応用は見当がつかないが、芸術家の意識もない。せめて芸術家のような暮らしをしているといえばいいかな」。
「数学者としてやっていこうかと思ったのは最近。もう逃げようがない感じ。でもいいアイデアが浮かばなくなるんじゃないかなと、いつも不安ですね。漆芸をやっている知人が『苦しい、苦しい』っていうのがよくわかります」。
 とくに最後の発言など、私なんか心底感動してしまいました。天才にしてこれです。数学とは何と過酷な学問なのでしょうか。


 フィールズ賞が40歳以下の研究者を対象とするのも何となく納得がゆく。藤原正彦も『天才の栄光と挫折 数学者列伝』で、数学は若者の学問といわれており、集中力を持続させるだけの体力が求められると書いている。それが証拠に50歳以上の学者による大発見はほぼ皆無である、とも。


 それはきっと虫眼鏡で太陽の光を集めて鉄を溶かすような作業なのだろう。そういや、羽生善治も似たようなことを書いていたっけ──


羽生善治の集中力/『決断力』羽生善治


 それにしても、ここ数年の数学本の賑わいぶりには目を瞠(みは)るものがある。