古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

ただひとりあること〜単独性と孤独性/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

『真理の種子 クリシュナムルティ対話集 Truth And Actuality』

 ・ただひとりあること〜単独性と孤独性
 ・三人の敬虔なる利己主義者
 ・僧侶、学者、運動家
 ・本覚思想とは時間論
 ・本覚思想とは時間的有限性の打破
 ・一体化への願望
 ・音楽を聴く行為は逃避である

・『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ


 全4冊。これがクリシュナムルティにとっての法華経といってよい。随所に盛り込まれた問答形式が日蓮の『立正安国論』を想起させる。いずれのテキストも3〜5ページほどでエッセイのような章立てとなっているが、内容は重量級だ。


 言葉というものは話そうと書こうと、いずれにせよ自分の内面から現れるものである。時に間違えたり、誤魔化したり、嘘をついたりすることもあるが、見る人が見ればおのずとわかるものだ。言葉とは自分そのものであり、自分という存在は言葉でしか表現することができない。


 サラリーマンをしていた頃、上司の家に招かれた折に私はじっと本棚を見つめた。元来本好きなこともあって舐(な)めるように見続けた。上司は面映(おもはゆ)げに言った。「あんまり見ないで欲しいな。何だか心の中を覗かれているような気になってくるよ」と。ご明察だ。本棚というのはその人の思考回路の本拠地みたいなものなのだから。


 クリシュナムルティが描き出す風景は絵のように美しい。そして時間の経過を感じさせない性質がある。厳密にいえば決してそうではないのだが、クリシュナムルティの深い観察と、鮮やかに切り取られた記憶の断面がそんなふうに感じさせるのだろう。

ただひとりあることと孤立


 太陽はすでに沈み、暗くなりゆく大空を背景に、木々は黒々と、そして姿よく立っていた。広く、力強い川は、そのとき、おだやかで静かだった。月が、ちょうど地平線上に現われた。彼女は、二本の大樹の間を昇っていったが、まだ影を投げてはいなかった。
 その川の急な堤を昇ってから、緑色の小麦畑のまわりをめぐっている小道を歩いた。この細道は、非常に古い道であった。幾千人もの人々によって踏みならされてきたこの道は、伝統と沈黙にあふれていた。この道は、畑や、マンゴー、タマリンドの木々、そして廃殿の間をうねり抜けていった。大きな花園が並んでおり、スイートピーの快い香りが空中をにおわせていた。鳥たちは、夜の眠りにつくために巣に帰りつつあった。そして大きな池の上には星々の姿が映りはじめた。その晩、自然は寡黙だった。木々は超然としており、それぞれの沈黙と暗闇の中に引き籠っていた。村人たちがほんの数人、自転車の上でおしゃべりをしながら通り過ぎていった。そして再び、深い沈黙と、あらゆるものがただひとりあるときに訪れる、あの平和があった。


【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)以下同】


 ウーーーム、実に味わい深い。これこそクリシュナムルティが「観察した世界」なのだ。生き生きと流れ通う現在を知覚した時、世界の一瞬はこれほど美しく輝いている。絶妙なイントロだ。

 この単独性(アローンネス)は、うずくような、恐ろしい孤独性(ロンリネス)ではない。それは、存在がただひとりとしてあることであって、不壊(ふえ)なるものであり、豊穣で、完全である。あのタマリンドの木は、それ自身である以外のいかなる存在も持たない。それゆえに、この単独性がある。火のように、花のように、人はただひとりある。しかし、その純粋さ、その無限の広がりは気づかれない。単独性があるときにのみ、真の共感が可能となるのである。ただひとりあることは、克己や自己閉鎖の結果ではない。ただひとりあることは、一切の動機、一切の願望の追求、一切の目的を一掃することである。ただひとりあることは、精神の最終結果ではない。ただひとりありたいと願っても、それは求めて得られるものではない。そのような願望は、共感できないことの苦痛からの逃避にすぎないのである。
 孤独は、その恐怖や葛藤とともに、孤立であり、自我の避けがたい行為である。この孤立過程は、広狭を問わず、混乱、葛藤、そして悲嘆をもたらす。孤立からは、決して単独性は生まれない。他方があるためには、一方が終わらねばならない。ただひとりあることは不可分にあることであり、孤独は分離である。ただひとりある者はしなやかであり、そしてそれゆえ不朽である。ただひとりある者だけが、原因を持たないもの、不可測のものと交わりうるのである。ただひとりある者にとって、死はない。ただひとりある者には、終りはありえない。


 クリシュナムルティの慧眼(けいがん)恐るべし。孤独は山中にあるのではなく、街の中に存在する。孤独はコミュニティや教室、そして家の中にある。孤独は群(むれ)の中で生まれる。民主主義がいつまで経っても成熟しないのは、孤独を恐れる人が多いためだろう。


 単独性とは比較を拒絶する精神であり、競争に勝つことを是(ぜ)としない価値観である。エベレストは気高く、富士山は美しい。標高は違っても完璧な単独性がある。「alone」(単独)という言葉は「all one」(全一)に由来している。


「ただひとりあること」――これに過ぎる名言はない。クリシュナムルティが説く「反逆」を実践する鍵もここにあるのだ。孟子は「自ら省みて直(なお)くんば、千万人といえども我行かん」と言った。ブッダは「犀の角の如く独り歩め」(スッタニパータ)と教えた。日蓮は「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(「佐渡御書」)と叫んだ。先哲の言葉は完全に一致している。


 最後の「死はない」という件(くだり)がわかりにくいことと思う。クリシュナムルティは、人間の葛藤は知識によって生ずるものであとしている。そして知識を構成しているのは記憶であり、記憶は過去に束縛されている。それゆえ、過去の経験の延長線上で現在を生きているため、真の現在を知覚できないとしている。つまり、過去を死なせなければ現在に生きることはできないというのだ。仏教的な解説を加えるなら、瞬間瞬間に生死(しょうじ)が完結することで、生は如々として流れ通う(=如来)という意味になろう。これを生死の二法という。日蓮は「臨終只今にありと解(さと)りて」(「生死一大事血脈抄」)生きてゆくよう門下に促しているが全く同じ意味である。つまり、生死という目に見える現象に捉われるのではなくして、瞬間の生命の実相に生死が含まれ、生も死も本然(ほんねん)として生命に具(そな)わっているものなのだ。朝起きて夜眠るのも生死である。また、人体の細胞が生死を繰り返すことで我々の生命は維持されている。


 このテキストは次のように締め括られる――

 月はちょうど木々の頂の上に現われ、そして影は厚く、黒々としていた。小さな村を通り抜け、川沿いを歩き戻ってくると、犬が一匹吠えはじめた。川が静まりかえっていたので、星々と長い橋からの光が水中に捕まっていた。ずっと高くの堤の上では、子供たちが立って笑っており、そして赤ん坊が一人、泣いていた。漁師たちは、自分たちの網を洗い、巻き収めていた。夜鳥が一羽、静かに飛び去った。広い川の向こう岸で、誰かが歌を歌いはじめた。そして彼の歌詞は、澄んでおり、よく通っていた。そして再び、一切に浸透する生の単独性がそこにあった。


 単独性とは固有性であり独自性でもあった。これが「ただひとりあることと孤立」と題されたテキストの全文である。短篇小説、あるいは名曲を思わせるほどの絶妙な構成だ。