古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

私鉄不動産複合体財閥企業がつくった東京の山の手/『山手線膝栗毛』小田嶋隆

 私は今から20年ほど前に上京したのだが、まず驚かされたのは東京という巨大な街の格差であった。もうね、電車の種類によって、着ているものから顔つきまでが違っているのよ。新玉川線(現在は東急田園都市線)=ブティック、東武亀戸線洋品店ってな感じだわな。


 で、東京ってところはさ、江戸時代から運河が縦横に走っているのよ。一昔前まで材木なんかも流して運んでいたそうだよ。下町の定義にも色々とあるようだが、Wikipediaによると、「今日では地名を整理統合する動きが進行しており、地名は地形とも地域社会とも一致しないため、地名を元に下町を区分する事は困難であるが、江戸時代から使われている具体的な地名をあげると、下谷・神田・根津・本所・深川・向島日本橋・京橋・浅草などの東京湾岸及び河川沿いの地域があげられる」となっている。ま、江戸っ子の感覚から言えば、貧乏人の住む地域はみんな下町だよ。


 で、山の手である――

 しかし、私が何よりも憎んでいるのは、この町の山の手側と海側の間に存在している信じられないほどの落差だ。


 一般に、東京の町は、山手線の東側の半円を境界として、東側が下町、西側が山の手になっている。というのは、山手線の東半円が、関東ローム層の台地の縁を走っているために、どの駅でも東側の方が海抜高度が低く、それゆえ、土地の資産的価値も低くなる傾向にあるからだ。
 品川は、この「山の手・下町格差」が最も明瞭な形で顕在化している町だ。ここでは、駅の西側つまり山の手側は、御殿山、高輪、白金台から麻布へと続く高級住宅街に連なっており、一方、東側は、倉庫と埋立地と冴えない飲み屋と養鶏場じみた公団のマンションが並ぶ風采の良くない地域の入口になっている。
 そして、こうした地域を再開発して活性化しようという計画が、いわゆる「ウォーターフロント」構想であり、私はこれも大いに憎んでいる。
ウォーターフロント」は、要するに「海っぺり」を役人風に言い換えてみた言葉だが、どう呼ぼうと、海っぺりは、江戸の昔から現在に至るまで、結局のところ貧しい場所なのだ。そして、貧しいからこそ、そこは、再開発の対象になっているのであって、その再開発の第一の手段は地上げであり、唯一の狙いは、金儲けなのだ。


【『山手線膝栗毛』小田嶋隆ジャストシステム、1993年)以下同】


 小田嶋隆は北区赤羽出身だが、今時は北区や板橋区の方が下町っぽい雰囲気が強い。雨に祟られ、軒先で雨宿りをしていると、見知らぬオジサンが平然と声を掛けてくる。東京ってえのあ、田舎から流れてくる連中が多いため、コミュニティとしての東京は、もはや幻想でしかない。実体があるのは「町」という単位のみだ。


 でだ、果たして誰が山の手をつくったのか。これは凄いよ――

 川端康成に「川のある下町の話」という小説があるが、この小説が書かれた頃には、「川」とか「橋」とか「土手」という言葉にはもっと違った風情が含まれていたはずなのだ。
 たとえば初夏の夕刻は、川べりに涼風が流れたはずだし、その風は、当然、一片の重油の匂いも含んでいなかった。そして、土手の斜面に腰掛けて夕涼みをしている少女の長い髪は、どこからどう考えてみても、たおやかになびかなかったはずはないのである。
 ところが、わが平成の東京の川風は、メタンガスと廃油とアオミドロの匂いを乗せて、ビルの壁の間のひねこびた通路を灰燼を巻き上げながら通り抜けて行く。であるから、もちろんそんな場所で夕涼みをする少女なんてものはいるはずがないし、いたところでそういう女の奥歯には、いじきたなく食べ散らかしたピザの切れっぱしがはさまっているに決まっているのだ。
 環境破壊の話をしているのではない。
 私は、不動産屋の陰謀の話をしているつもりだ。
 つまり、具体的に言うと、「主に東京の西半分を拠点に土地開発事業を展開した私鉄不動産複合体財閥企業の連中が行なった悪質なる水辺蔑視思想定着活動の成果」の話を私はしているわけなのだ。
 川は水害と病原菌と公害の源泉であり、海抜高度の低い所に住むのは貧乏人でありまして、ですから丘の上に住むのでなければ貴族階級とはいえないのでござあますのよ、というこの思想は、決して確かな伝統を持ったものではない。せいぜい戦後半世紀足らずの間に醸成されたプチブル根性の典型例であるに過ぎない。


 欧米の事情はいざ知らず、わが国では、いや、もっと範囲をせばめて少なくとも東京では、と言い直しても良いが、少なくとも我らが東京では、山の方に住んでいる人間は田吾作だったのである。
「なんでえ、おめっちのとこにゃ橋もないってか」
 ってえくらいなもので、何が悲しいといって、江戸っ子が、運河も掘ってないような山奥に追いやられるほど悲しいことはないのである。
 しかし、それでも大手不動産屋たちは、「○○丘」や「○○台」こそが高級住宅地だ、という宣伝を怠らなかった。なぜかといえば、彼等がどう土地を売ろうと思っても、東京で土地が余っていたのは内陸の台地ばっかりだったからだ。海辺や川べりの「一等地」(とあえて言うぞ、オレは)には、すでに由緒正しい江戸っ子が住んでいて、新しく東京に出てきた作蔵だの捨吉ずれに分けてやれるような半端な地面は、草深い「山の手」にしか残っていなかったからだ。
 であるからして、彼等、鉄地複合体制(鉄道および地上げ複合企業体)は「郊外」という耳障りの良い言葉を発明した。そして、それをムジナが出るような二毛作の大根畑に当てはめる一方で、返す刀で東半分の旧東京を「水っぺり」呼ばわりにし、そのイメージの低下を促し続けたのである。
 ……と、何かにつけて私が繰り返しているこの主張は、考えてみれば、「東京者」という、結局のところ東京において最も田舎臭い存在におちぶれてしまった存在である私のような者だけが抱いている、一種のひがみなのかもしれない。
 このことは認めても良い。
 しかしながら、地方出身者にだって地方出身者のひがみがあるはずだ。
 たとえば、東京の西半分を造成した張本人である五島某太や堤某次郎のような人々は、地方出身者であったが、その彼等には「東京者だけが集まって田舎者いびりをしている旧東京体制」に対する敵意があったはずだと私は思っている。
 だからこそ彼等は、
「よおーし、そんならオラが新しい東京を作ってやるから覚悟してやがれ」
 と決意したのであり、そうやって出来たのが、田園調布であり所沢であり多摩プラーザであり、つまり現在の東京であるわけなのだ。
 ううむ。とすると、ひがみのスケールとして、明らかに彼等の方が大きい。それに、おなじひがみと言っても性質がまるで違う感じもする。
 なにより、我々東京出身者がもっぱら過去の東京や少年時代の東京に拘泥しているのと比べて、彼等地方出身者は東京に自らの未来を見ている。


 ジャーナリストよりもはるかに鋭い指摘である。この本は、山手線界隈の地域をスケッチしたものだが、下手なフィールドワークよりも充実した内容となっている。江戸っ子であるオダジマンが、変わり果てる東京の姿に哀愁の眼差しを注いでいる。


 我々庶民は、スケールが大きくなると犯罪性を見失う傾向が強い。資本主義というゲームが、平等なルールで運営されていると思ったら大間違いだ。


土地の価格で東京に等高線を描いてみる/『我が心はICにあらず小田嶋隆