・悪しき「私化」の進行
・社会学者が『妖怪人間ベム』を鮮やかに読み解く
・国民的物語「忠臣蔵」に代表される「意地の系譜」と「集団主義」
・B'zに至るまでの1970~80年代サブカルチャーの系譜を山田玲司が鮮やかに切り取る
ジェンダー論は小難しい。いや、もっとはっきり言おう。面倒臭いのだ。「それは差別に決まっているでしょ。でも、本質的な違いってあるのよね」と言われたら、「勝手にしてくれ」と返答するしかない。
本当の問題は、「性差に基づく社会的・制度的・思想的差別」にあるのだろうが、男女雇用機会均等法に至っては“悪平等”だと私は考える。同法の施行に合わせて、看護婦(→看護師)・保母(→保育士)・スチュワーデス(→客室乗務員)といった思い入れのある言葉が抹殺される羽目となった。で、男性の客室乗務員がいないのはどうしたことか? ま、いらないけどさ。
熊田一雄は、わかりにくいジェンダー問題にアニメ論を盛り込むことで、私の興味をつないでくれる。
先に、敗戦から高度成長期までの日本人男性の「星一徹コンプレックス」という概念を提出したが、ここでは、やはり「人種/ジェンダー/精神分析」という問題意識から、『巨人の星』のような大メジャーではなくマイナーな作品であったが、当時の視聴者(アニメ放映は1968-69年)には強烈な印象を残したアニメ『妖怪人間ベム』を再考してみたい。この作品には、「早くアメリカの白人(男性)なみになりたい」という当時の日本人、とくに子どもたちの屈折した欲望が、「早く人間になりたーい」妖怪人間たちの願望として、デフォルメされて描かれていたように思われる。
『妖怪人間ベム』が放映されていたのは、私が5〜6歳の頃である。とすると、私の記憶に焼きついているのは、再放映だったのかも知れない。あの出だしのおどろおどろしいナレーションは今でも忘れられない。「それは、いつ生まれたのか誰も知らない。暗い、音のない世界で、一つの細胞が分かれて増えてゆき、三つの生き物が生まれた。彼らはもちろん人間ではない。また、動物でもない。だが、そのみにくい体の中には、正義の血が隠されているのだ。その生き物。それは、人間になれなかった、妖怪人間である」(「ルシファの翼」から勝手にコピー)。しかも、この一つの細胞ってのが、完全にヘドロを想起させる絵であった。で、とにかく3人の人相が悪い。ベムはデューク東郷(「ゴルゴ13」ね)より酷薄そうだし、ベラは落ちぶれたストリートガールそのものだし、ベロはマフィアの使い走りといった印象である。こうしたインパクトの強さもあって、ストーリーを私は何一つ覚えていない。3人が逃げ続けていたことしか記憶にないのだ。
妖怪人間たちは、「人間(=この作品では事実上「白人男性」のこと)たちに尽くしていれば、いつかは人間になれる」と信じて、人間の弱い心に取り入った悪の妖怪たちを次々に退治していくのであるが(妖怪人間は人間には絶対に危害を加えない)、人間には感謝されるどころか、いつも変身したときの「獣のような」醜い姿を嫌われ、白人男性たちの警察に追われる身となり、最終回ではとうとう人間たちに、炎のなかで甘んじて焼き殺された(事実上の焼身自殺?)ことが暗示されている。現在、日本では、古典的アニメのリバイバルが盛んにおこなわれているが、『妖怪人間ベム』はメジャーなシーンでは復活していない。
そんな深慮があったとは知らなかった。もちろん、最初からそういった構想があったわけではなく、時代という土壌に咲いた花がたまたまそのような形になったのだろう。
振り返ると私が幼少の頃、外国といえばアメリカを意味していた。ニューギニアやエチオピアだったことは一度もない。アメリカは憧れの国だった。きっと、私の先祖も米兵からチョコレートをもらっていたのだろう。DNAがそう囁いている。
日本はアメリカになろうとした。多分。豊かな生活、立派な肉体、フランクな人柄、民主主義、マクドナルド……。日本人が日本人であることをやめようとして悲喜劇は起こった。多分。そして、アジア諸国から忌み嫌われた。多分。バブル景気でジャブジャブになったお金は、そっくりアメリカに持っていかれた。多分。アメリカが戦争を始めると、必ず資金供給を要求された。
日本は、アメリカの犬なのか? アメリカの51番目の州なのか? アメリカの奴隷なのか? その通り。我々は太平洋をまたいだ鎖につながれたアジアの番犬であり、アメリカ国民が納める税金に等しい金額を搾取され(違っていたらゴメンなさい)、アメリカ様のため苦役に甘んじる徒輩なのだ。
スマン、筆が走り過ぎた。でもまあ、そんなところだと思いますな。これね、しようがないんだよ。だって、世界中の物を買ってくれているのはアメリカなんですから。アメリカ国民が借金まみれになってまで贅沢をしてくれるので、世界経済は成り立っているわけです。ハイ。
妖怪人間の姿が、「ハンセン病」患者を象徴していたとすれば、物語は更なる深まりを見せる。