常在戦場の覚悟と生きざま/『一人ならじ』山本周五郎

 人にどう見えるかではない。自分がどうあるかである。


 メディアの発達はテレビ全盛の時代を招来し、活字文化などは脱ぎ捨てられた靴下ほどの位置に追いやられてしまった。そして情報化社会は人間同士のふれあいを不要なものへと貶(おとし)めつつある。


 次から次へと流れる刺激的な映像。絵の効果を高めるBGM。ライトアップ・効果音・笑い声……。雨や雪をも自由に降らせ、人の視線が届かない位置にカメラは構える。テレビこそは現代の神器(じんぎ)にして、新時代の御本尊だ。それが証拠に大多数の人の自由な時間の殆どは、テレビに捧げられているではないか! テレビは見る人を掴(つか)まえて放さない。座り続けている様は行儀の悪い禅僧さながら。そして、人生から感動を奪い、人間から批判力と思考力を抜き取り、瞳から輝きを消し去る。なぜなら、テレビの映像はどこまでいっても虚像であるからだ。座して呆(ほう)けている自分の方こそが実像なのだ。


 ブラウン管の向こうにしか感動やドラマを見出せない社会は虚像に満ちている。「人にどう見えるか」との価値観に束縛されてしまった善良な精神は、SMプレイ状態でローソクと鞭を待つばかりだ。


 この本を読むこと4度目にして感じたことは「テレビを消してこの本と向き会え」ということだ。


 味わい深い短編の数々は読む人をして襟を正さずにはおかないものがある。「心の深さ」に只、圧倒され、打ちのめされ、身動きすることさえままならなかった。


 劇中の人物は皆「自分がどうあるか」という一点に生を燃焼させ、死をも厭(いと)うことはない。だが、その振る舞いはどこまでも水の如く淡々としたものである。


「人にどう見えるか」という視点には確固たる自分がない。いかに立派な素振りをしたところでウェディングケーキのように空虚なものだ。


「自分がどうあるか」ここに哲学があり、信念が存在する。自分自信に対し、一点の澱(よど)みもなく晴朗な生きざまを日常の中で貫いているかどうか。ページを繰るごとに周五郎は問いかけてくる。


 最後に一つだけ書かせてもらうと、「夏草戦記」の一場面に次のような件(くだり)がある。


 主人公・三瀬新九郎が死罪を前にして、武田勝頼の家来・多田新蔵の壮烈極まるエピソードを語る。織田軍に捕えられた新蔵が、信長より直々に随身するよう言われるが、黙したまま語らない。熱心な勧めにもかかわらず彼は黙り続ける。信長の命で縄を解いたその瞬間、新蔵は傍らの槍を取り、目にも止まらぬ速さで4〜5人を突き刺した。立ち竦(すく)んだ織田家の人々は、四方からとり詰めてようやく新蔵を討ち止めた、というものであった。


「俺はこの話を思いだすたびに泣ける」と新九郎は語る。泣けるほどの共感を喚起するものは何なのであろう。時を超え、武士としての魂が響き合い、共鳴する。そこには意味すらも必要としないのかも知れない。


 生命の奥深いところで交錯する共感の妙。志に生きた人間が発する光は、生のあり方を眩しく示し出す。



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