著者のイーブリン・ブローは、『変化への挑戦 クリシュナムルティの生涯と教え』のDVDでホスト役を務めていた女性である。多分財団関係者だと思われる。映像で観る限りでは、冷ややかな目つきで傲然とした雰囲気を漂わせていた。いけ好かないタイプのおばさんだ。
それゆえ本書にもあまり期待していなかった。で、予想通りだった(笑)。私の人を見る目は確かなようだ。
2部構成の評伝であるが、その半分(つまり本書)を星の教団時代に割くとは、一体どういう料簡(りょうけん)に基づいているのであろうか? クリシュナムルティという巨人の半分を神秘時代が占めているというのか? それとも不可思議な体験をドラマチックに描くことでスピリチュアル系にアピールしようと企図したのか?
はっきりと述べておこう。星の教団解散以前の歴史は、クリシュナムルティの教えを学ぶ上で無視して構わない。否、無視すべきである。クリシュナムルティが否定した「古い宗教のあり方」に注目すること自体、彼の教えを理解していない証拠である。
本書で読まれるべきは、多くの証言とクリシュナムルティによる詩の数々である。
おお、世界よ、
汝がもし私とともに〈幸福の王国〉に歩み入ることを欲するのなら、
汝はあの真理にとっての毒──偏見──から自由にならねばならない。
汝はあまりにも多くの偏見に浸かっている。
古くからの、そして新しい偏見に。
汝は自由にならねばならない、
あの伝統の偏狭さから、
慣習、性癖、感情、思考の偏狭さから、
宗教、崇拝、崇敬の偏狭さから、
民族の偏狭さから、
家族、所有の偏狭さから、
愛の偏狭さから、
友情の偏狭さから、
汝の「神」とその「神」へ(ママ)近づき方の偏狭さから、
汝の美の概念の偏狭さから、
汝の仕事と職務の偏狭さから、
汝の達成と栄光の偏狭さから、
汝の報いと罰の偏狭さから、
汝の欲望、野心、目的の偏狭さから、
汝の切望と満足の偏狭さから、
汝の不満と充足の偏狭さから、
汝の苦闘と勝利の偏狭さから、
汝の無知と知識の偏狭さから、
汝の教えと掟の偏狭さから、
汝の思想と見解の偏狭さから──
これらのすべてから汝は自由にならねばならない。
……
汝が自由で、拘束されていない時、
汝の身体がよく統御され、くつろいでいる時、
汝の眼がその純粋なまなざしですべてを知覚する時、
汝の心が静穏で愛情にあふれている時、
汝の精神がよく均衡を保っている時、
その時、おお、世界よ、
あの〈庭園〉の扉が、
〈幸福の王国〉の扉が
開くのだ。(「探究」1927年)
【『回想のクリシュナムルティ 第1部 最初の一歩……』イーブリン・ブロー/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2009年)】
誰もが幸福を望む。歳月という過酷な波に洗われて、目指す幸福は二つに分かれてゆく。安楽と自由に。
安楽とは享受する幸せだ。その中身はといえば、所有の欲望を満たすものが殆どだ。「栄光」という言葉は死に絶え、「成功」に取って代わった。ナポレオンのような人物が出てくる余地はどこにもない。
それに対して自由とは何か? 自らの意志で人生を切り拓くのが自由だ。それは北風に向かって歩く自由でもある。単なるわがままは怯懦(きょうだ)を意味するが、真の自由は強靭な意志に裏打ちされたもので、孤独を謳歌する精神に宿る。
失っても失っても尚かつ残る何か。周囲が奪おうとしても奪うことのできない何か。たとえ病床にあろうと獄中にあろうと光を発する何か。それこそが真の自由であろう。
例えば戦争捕虜のこんなエピソードがある──
メトリンコは、自分が状況をコントロールできるといういうことを学生の見張りに見せつけた。彼は回想している。「私は、祭日に出される特別な料理を食べることを拒否しました。それは宣伝にすぎない、まったくのごまかしだということを、彼らにわからせたかったからです」
【『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル/小此木啓吾〈おこのぎ・けいご〉訳(フォー・ユー、1987年)】
彼には「断る自由」があったのだ。自由とは人生の主導権を握る行為であるが、かくも厳しい選択をせざるを得ない場合もある。
また束縛から離れることが自由であるならば、楽な生き方を拒絶するところに本物の幸福が現れるに違いない。
クリシュナムルティは「偏狭さからの自由」を声高らかに謳(うた)い上げている。星の教団の解散は2年後のことである。何ものをも頼ることなく「犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩め」(『スッタニパータ』)というブッダの言葉と響き合っている。
私が私に拠(よ)って立つ時、自由の扉は開かれ、現在性を奏でる生の流れが脈々と流れ通うのだ。幸福よりも自由を目指せ。