古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

騙す意図、騙される被害/『夜』エリ・ヴィーゼル


 世の中には騙(だま)す人と騙される人がいる。「オレオレ」と電話をする者が騙す人で、慌てて振り込んでしまうのが騙される人だ。当然、騙す側には何らかの意図や狙いがある。騙されるのは常に人がよいタイプだ。ま、判断力を欠いているわけだが。


 人は何かを信ぜずして生きてゆけない。周りにいる人々を信じ、情報を信じ、所属する機構を信じている。生きるとは自分と社会の未来を信じることでもある。


 しかし一寸先は闇だ。エリ・ヴィーゼルナチス・ドイツという名の国家に騙された。

 私はもはや、日々の一皿のスープと一きれの古くなったパン以外には関心を向けなくなっていた。パン、スープ――これが私の生活のすべてであった。私は一個の肉体であった。おそらくはそれ以下のもの――一個の飢えた胃。ただ胃だけが、時の経ってゆくのを感じていた。


【『夜』エリ・ヴィーゼル/村上光彦訳(みすず書房、1995年)以下同】


 強制収容所は人間を一片の臓器へと変えた。食欲に取りつかれた状態は餓鬼そのものだ。

 ある日、私たちが停車していたとき、ひとりの労働者が雑嚢から一片のパンをとりだして、それを貨車のなかに投げ込んだ。みんながとびかかった。何十人もの飢えた者が幾片かのパン屑のために殺しあったのである。ドイツの労働者はこの光景をひどく面白がった。


 ホロコーストを生き延びた証言者の中でエリ・ヴィーゼルは筆頭に位置する人物である。書籍においてはV・E・フランクルプリーモ・レーヴィが連なるが、世界への影響力が図抜けている。


 私が本書を読んだのは、レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』で以下の部分が紹介されていたからだ。

 3人の死刑囚は、いっしょにそれぞれの椅子にのぼった。3人の首は同時に絞索の輪のなかに入れられた。
「自由万歳!」と、二人の大人は叫んだ。
 子どもはというと、黙っていた。
「神さまはどこだ、どこにおられるのだ。」私のうしろでだれかがそう尋ねた。
 収容所長の合図で三つの椅子が倒された。
 全収容所に絶対の沈黙。地平線には、太陽が沈みかけていた。
「脱帽!」と、収容所長がどなった。その声は嗄れていた。私たちはというと涙を流していた。
「着帽!」
 ついで行進が始まった。二人の大人はもう生きてはいなかった。脹れあがり、蒼みがかって、彼らの舌はだらりと垂れていた。しかし3番めの綱はじっとしてはいなかった――子どもはごく軽いので、まだ生きていたのである……。
 30分あまりというもの、彼は私たちの目のもとで臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死のあいだで闘っていたのである。そして私たちは、彼をまっこうからみつめねばならなかった。私が彼のまえを通ったとき、彼はまだ生きていた。彼の舌はまだ赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。
 私のうしろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。
「いったい、神はどこにおられるのだ。」
 そして私は、私の心のなかで、ある声がその男にこう答えているのを感じた。
「どこだって。ここにおられる――ここに、この絞首台に吊るされておられる……。」
 その晩、スープは屍体の味がした。


 地獄絵図そのものだ。確実に死ぬことのわかっている少年が、身をよじりながらわずかに残された生を燃やしているのだ。見ている者は何もできない。抗議の声すら上げることすらかなわない。否、彼らに無力感を打ち込むことが公開処刑の目的といえるだろう。いざという時、神は必ず留守にしている。

 私たちはこうしてしばらく議論した。自分が議論している相手は父ではなくて死そのものだ、父はすでに死を選んでしまっており、自分はそいつと議論しているのだ、という感じがした。


 死に神が大手を振って歩いていた。死は手の届く範囲に存在した。朝起きると、新しい死が誕生していた。


 さて本題に入ろう。人や本との出会いが世界観を変える。そこで変わったものとは何か? 突き詰めてゆけば「情報」に行き当たる。もっと具体的にいえば「脳内の情報構成」が変わったのだ。その意味で世界観とは「情報の結びつき」に他ならない。味も素っ気もない言い方ではあるが。


 世界観が変わると生き方が変わる。意味の度合いが変化するためだ。昨日まで無意味であったものが今日から有意味になったりする。逆もまた然(しか)り。


 私は本書に続いてノーマン・G・フィンケルスタイン著『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』を読んだ。一度変わった世界観が、またぞろ引っくり返された。


 私はエリ・ヴィーゼルに騙されたのだ。大体、頚動脈が絞(し)められた状態で30分も意識があるというのはおかしい。そしてノーマン・G・フィンケルスタインが騙さないという保証はどこにもない。もちろん、どちらを信用するかという問題もある。


 騙す側には意図がある。つまり、騙すという行為の目的はコントロールにあるのだ。マスメディアは大衆を扇動し、国家は歴史を修正する。

 詐欺とは巧みな物語をでっち上げて相手を騙す行為である。だが改めて考えてみると、政治も教育も宗教も詐欺である可能性が高い。


 結論──権力者は詐欺師である。以上。


「ありがとウサギ」を「ありがとう詐欺」と読んでしまう今日この頃。


夜 [新版] ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち