古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン

 ・視覚の謎を解く一書
 ・道に迷うことは物事を発見するために欠かせないプロセスだ
 ・盲目の冒険者

耳が聴こえるようになった瞬間の表情
色盲の人が初めて色を見た瞬間の感動動画
生まれて初めて色を見て咽(むせ)び泣く人々
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎
『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン


 子供の時分から「目が見えること」が不思議でならなかった。超能力や超常現象よりもはるかに不思議である。「幽霊を見た」ことよりも、まず目が見えることを驚くべきなのだ。


 もちろん視覚だけではない。五感のすべてが同じように不思議だ。それは結局、感覚器官を司る脳の不思議であった。ここ数年にわたって脳や視覚に関する書籍を読んできて、ブログにもわざわざ「視覚」というカテゴリーを設けている。本書は視覚に関する決定版であると断言しておこう。


 長い間、目は「見えている」と考えられてきた。つまり、カメラが写真を撮影するように目蓋(まぶた)を開けば、そこに世界が映るというわけだ。ということは万人が同じ世界を見ていることになる。


 思春期の私が疑問を抱いたのは「あばたもえくぼ」という諺(ことわざ)だった。惚れてしまえば、ニキビの痕(あと)もえくぼに見える。友人から「好きな子がいる」と打ち明けられるたびに、「あんな女のどこがいいんだ?」と思ったことが何度もあった。


 教訓その一――人は主観によって世界を見つめている。


 また、あなたが見ている「赤」と私が見ている「赤」は厳密には違うことが近年明らかになってきた。人の数だけ「赤」があるってわけだよ。ま、薄い色のサングラスみたいなフィルターがかかっていると考えればいいだろう。


 脳や視覚というのは実験することができない。ゆえに、事故や病気などによる障害を通して手探りで研究されているのが現状だ。その中で最も有名なのが1958年に手術で目が見えるようになったブラッドフォードである。視覚に関する書籍にはよく引用されているエピソードである。ブラッドフォードは「見えた世界」を理解することができなかった。特に「人の顔」を見わけられなかった──

 手術後、視力そのものがどんなに回復しても、ほかの人たちと同じようにものを見られるようになった患者は一人もいない。視覚のいくつかの面は文句なしに機能したが、まったく機能しない面もあったし、ほかの人たちと異なる不可解な機能の仕方をした面もあった。ほぼすべての患者は手術後すぐに、動くものと色を正確に認識できた。最近まで目が見えなかったとは信じがたいほど、高い認識能力を示す。しかしそれ以外となると、そうはうまくいかなかった。
 ブラッドフォードもそうだったように、患者たちは人間の顔がよくわからなかった。高さや距離、空間を正確に認識することにも苦労した。こういう状態では、視覚を通して世界をきちんと理解することができない。視覚以外の手がかりに頼らずに、目の前にある物体の正体を言い当てることも難しかった。それまでに手で触れてよく知っているはずのものでも、その点は同じだった。いわば視覚のスイッチを「オン」にするために、いま目で見ているものに手で触れようとする患者が多かった。手で触れることができないと、途方に暮れてしまうようだった。
 理解不能な映像の洪水に押し流されて、混乱し、いらだち、疲れてしまう場合も多かった。とりたてて努力せず無意識にものを見て理解できる患者は、一人もいなかったようだ。ものの大きさや遠近感、影には、多くの患者が悩まされた。世界は意味不明のカラフルなモザイクにしか見えなかった。目に映像が流れ込んでくるのを押しとどめるために、目を閉じてしまう人もいた。あるものを見ても、次のものを見たときにはもうすっかり忘れてしまう人もいた。絵や写真を理解できる人はほとんどいなかった。勘をはたらかせたり、視覚以外の感覚を動員したりして、視覚による理解を助けている人も多かったが、とんでもない思い違いをする場合も少なくなかった。
 しかも、これはあくまでも視覚レベルに限った問題でしかない。心の問題はこれよりはるかに深刻だった。
 視力を取り戻した人たちは、深刻な鬱状態に落ち込んだ。そこから抜け出せた人はほとんどいなかったようだ。この種の患者の症例を収集してドイツで出版された『空間と視覚』という文献の著者M・フォン・センデンは、次のように述べている。

 数々の症例報告全体から言えるのは、このような患者にとって、ものの見方を学ぶことは、数知れない困難がつきまという一大事業だということである。手術により光と色という贈り物を与えられればさぞうれしいにちがいないという一般の思い込みは、患者たちの実際の気持ちとまったくかけ離れているようだ。


【『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン/池村千秋訳(NTT出版、2009年)以下同】


 このため後天的に視覚を得た人々は例外なくうつ病になっている。


 ところが本書の主人公マイク・メイはおとなしい視覚障害者ではなかった。3歳の時に爆発事故で失明。ところがマイクは走ることを恐れない。何と自転車にまで乗り、アマチュア無線好きが高じて、50メートル以上の鉄塔に登ってアンテナの向きを変えたこともあった。いたずらで、わずかな距離ではあるが自動車の運転までしたこともある。大学生の時にはアフリカのガーナへ留学。障害者アルペンスキーでも世界選手権に出場し、金メダルを三つ獲得。チャレンジ精神の塊(かたまり)みたいな男で、大学院を出た後は、何とCIAに就職している。そして彼は目が見えないにもかかわらずブロンド美人としか付き合わなかった。


 マイク・メイにとって障害は、人生の障害ではなかった。目は不自由だったが自由に生きた。メカにも強い彼は、視覚障害者用のGDP装置を開発する経営者になっていた。手術すれば見えるようになるかもしれない──眼科医から告げられた時、彼は大いに悩んだ。なぜなら何ひとつ不自由はなかったからだ。ところが、光を取り戻すことができたとしても、強い薬を服用するため発癌リスクが高くなると告げられた。つまり、目と引き換えに命を差し出すことになるのだ。だが彼はマイク・メイだった。挑戦こそが彼の本領だ──

 ところがグッドマン(医師)は消毒や包帯のことなどひとことも口にせず、妙なことをし、妙なことを言った。親指と人差し指でまぶたを開かせながら尋ねた。「少し、見えますか?」
 ズドーン! ドッカーーーーーン!
 白い光の洪水がメイの目に、肌に、血液に、神経に、細胞に、どっと流れ込んできた。光はいたるところにある。光は自分のまわりにも、自分の内側にもある。髪の毛の中にもある。吐く息の上にもある。隣の部屋にもある。隣のビルにもある。隣の町にもある。医師の声にも、医師の手にもくっついている。嘘みたいに明るい。そうだ、この強烈な感覚は明るさにちがいない。とてつもなく明るい。でも痛みは感じないし、不愉快ですらない。明るさがこっちに押し寄せてくる。それは動かない。いや、たえず動いている。いや、やっぱりじっと動かない。それはどこからともなくあらわれる。どこからともなくやって来るって、どういうことだ? すべて白ずくめだ。グッドマンの尋ねる声がまた聞こえる。「なにか見えますか?」。メイの表情が満面の笑顔に変わった。自分の内側のなにかに衝き動かされて笑い声を上げ、言葉を発した。「なんてこった! 確かに見えます!」。ジェニファーは心臓がドキンドキンと脈打ち、喉が締めつけられた。「ああ、神様」
 光と出会って1秒後、明るさが質感をもちはじめた。このものに手で触れられないのか? その1秒後、明るさは四方八方から押し寄せるのをやめ、ある一つの方向からやって来るように思えてきた。あっちだ。頭上のブーンという音のするほうからやって来る。ほんの一瞬だけ、光から意識が離れて、診察室のブーンという音の源は蛍光灯だという知識を思い出した。そう思って光に意識を戻すと、その光が特定の場所から、頭の上の蛍光灯からやって来るのだと確信できた。その1秒後、光はもはや単なる光ではなく、目の前ではっきりとした明るい形をを取りはじめた。まわりにあるのは壁だろう。頭の上から降り注ぐ光とは別の光だから、きっとそうだ。どうして光が違うかは考えるまでもなかった。それは色が違うからだ。そう、色だ! 幼いころに親しんでいた、色というものだ! いま、色のスイッチが押されたのだ。


 まるで「悟り」を描いているようだ。「見る」とはこれほど劇的な感覚なのだ。光の粒という粒が目に突き刺さるような感覚が凄まじい。「神は言われた。『光あれ』」(旧訳聖書「創世記」)、そしてブッダ白毫(びゃくごう/眉間の白い毛)から光を放って世界を照らした。仏典では物質のことを「色法」(しきほう)と表現するが、その意味すらもマイク・メイは教えてくれている。彼が生きる世界は一変した。

 診察室を出て、待合室に足を一歩踏み出すと同時に、メイは固まってしまった。この美しく輝かしい空間はいったいなんなのか。このあまりに素晴らしいものの数々はいったいなんなのか。四方八方から色と形が降り注いできた。忙しそうな人たちがてんでんばらばらの方向に歩いていく。その場にあるものはどれも極大サイズに見えた。周囲を見回し、きらびやかな待合室をすべて目の中に取り込もうとした。足元に目を落として、思わず驚きの声を上げた。
「この形! この色! これは、カーペットの上に載ってるの?」
「ええ、カーペットの一部よ」と、ジェニファーが説明した。「カーペットのデザインなの」
 まわりには、診察の順番を待つ人たちが座っていた。その誰一人として身じろぎ一つせず、落ち着き払っているように見える。このカーペットに目もくれず、ぼけっと座っているなんて、メイには信じられなかった。こんなにすごいカーペットが目の前に存在しているというのに、どうして平気な顔をしていられるんだ?


 きっと我々も生まれてから間もない頃は、同じような感動を味わったことだろう。そして、いつしか慣れ、当たり前となり、心は鈍感になっている。目が見える幸福を我々は味わうことができなくなってしまったのだ。豊かな世界はもはや灰色にしか映らない。


 その後、マイク・メイには視覚障害があることが判明する。他の患者同様、やはり人の顔を見わけることができなかった。男か女かもわからないのだ。また彼は錯視画像を見ても錯覚することがなかった。例えば直線だけで描かれた立方体を我々が眺めていると向き(奥行きを感じる部分)が反転することがあるが、彼には正方形と直線にしか見えなかった。立方体と認識することもできないのだ。


 つまり、目は「見えている」のではなく「映像の意味を読み解いている」のだ。

 すべてのカギを握るのは、文脈と予測。この二つの武器が使えるのと使えないのとでは大きな違いがあった。


 私はまたしても悟りを得てしまった(笑)。これは凄い! 結局、視覚の最大の特徴は「錯覚できる」ところにあるのだ。錯視は単なる見間違いではなく、視覚が紡ぎ出す物語性なのだ。ということは、「世界」はそこに存在するものではなくして、我々が想像することで像を結んでいると考えることも可能だ。そして世界とは意味に他ならない。



視覚と脳
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