・日本仏教の黎明を告げた鎌倉仏教
・日蓮の『立正安国論』
・日本仏教は鎮護国家仏教として出発した
・本地垂迹説
仏教の伝来に対する、氏神信仰からの激しい抵抗の結果、仏教の側では、一種の妥協と譲歩を余儀なくされた。インドの仏が、衆生(しゅじょう)を済度するために、神の姿でわが国に現れたとする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)こそ、仏教の神道に対する妥協の産物、つまり神仏習合思想の現われにほかならなかった。鎌倉時代になってからも、氏神信仰はさかんであり、ことに宮中では、神事が仏事に優先していた。
ブッダが三世にわたる因果を説いたのも「妥協の産物」といえよう。では、何のための妥協であったのか? それは理論的なものではなくして、リアリズムに立脚した衆生済度(しゅじょうさいど)のためであった、と私は考える。戸頃の見方はやや政治的視点に傾きすぎている。