古本屋の覚え書き

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時代に真っ向から反逆した日蓮/『日蓮とその弟子』宮崎英修

 一般向けの作品ではない。マニア向け。本弟子六老僧の一人である日興の筆による「御遷化記録」(ごせんげきろく)を通して日蓮の逝去前後の経緯が詳しく描かれている。日蓮は貞応元年(1222年)に生まれ、弘安5年(1282年)に死去した。立教開宗(=初めて南無妙法蓮華経と唱えた)が数えで32歳の時だから、人生の後半を革命家として過ごしたことになる。


 日蓮は決して幕府権力の転覆を意図したわけではなかった。国主を諌暁(かんぎょう)した一書「立正安国論」は主人と客による問答形式で綴られており、事実上の権力者であった北条時頼を「客」に擬することで、自らの主張を堂々と展開した。日蓮は仏教本来の対話を重んじた。つまり、「言葉の力」を信じていたといってよい。


 そうでありながらも彼は革命家であった。現代であれば、さしずめテロリストのように思われていたことだろう。日蓮は既成の常識に真っ向から挑んだ――

 すでに聖人は、仏法を習うは仏にならんがためである、仏になることはこれによって父母・師匠・国王の恩を報ぜんとするにある(報恩抄)といい、知恩報恩が仏者の最大の目的であるとする。しかも、仏道をきわめんとするには父母・師匠・国王に従ってはならない(同)、一般に、孝とは親に従うことが孝の道であると教えるが、仏になる道は親に従わぬのが孝養の根本であると断ずるのである(兄弟抄)。このような世俗倫理の否定は一見秩序の破壊に似て、実は仏になる道、成仏の直道であり、ひいては父母等を救って孝養の本義に契(かな)うのであり、世俗の倫理を仏道によって昇華させるものであった。


【『日蓮とその弟子』宮崎英修〈みやざき・えいしゅう〉(毎日新聞社、1971年/平楽寺書店、1997年)】


 鎌倉時代にあっては各宗の若者は比叡山へ遊学するのが習わしであった。比叡山は総合大学のような機能を果たしていた。とすると、教団意識は現代と比較すれば格段に緩やかだったことだろう。ひょっとすると、経済学部と法学部くらいの差しかなかったかもしれない。


 日蓮比叡山から千葉・清澄寺に戻り、17日間の禅定に入った後、初めて南無妙法蓮華経という題目を唱えたとされている。と同時に、世に受け入れられている各宗を厳しく批判した。その舌鋒(ぜっぽう)はあまりにも鋭かった――「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗国賊の妄説」(四箇の格言)と。それを耳にした地頭・東条景信は直ちに日蓮の草庵を急襲した。


 日蓮は万巻の経典を読み抜き、ブッダの悟りが法華経妙法蓮華経)に説かれていることを知った。鎌倉時代と侮るなかれ。日蓮は何とサンスクリット語の経典にまで目を通しているのだ。


 反逆者・日蓮は何に逆らい、何と戦ったのであろうか? 人々が時代に支配される中で、彼は「民を抑圧する一切」と戦ったのだ。そのためとあらば、彼は命を差し出す覚悟があった。実際、文永8年(1271年)には斬首される寸前に至っている(その後、佐渡流罪)。彼に続く弟子もまた、莞爾(かんじ)として迫害の中に身を置いた。


 クリシュナムルティが説く「反逆」を体現した人物が、何と700年前の日本に存在したのだ。私はクリシュナムルティを読むたびに日蓮を思い、日蓮を思ってはクリシュナムルティの思想に共感する。


 真の人間は、時空を超越してその肝胆を照らし合うのだろう。人類の教師は、死して尚沈黙のうちに多くを教えてくれる。