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クリシュナムルティの悟りと諸法実相/『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ

 ・クリシュナムルティの悟りと諸法実相
 ・プロセスとは形を変えた病苦か

『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ


ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト
悟りとは
必読書リスト その5

 間違えてもこの本を最初に読んではいけない。本書から入ってしまえば、クリシュナムルティニューエイジの枠に入れざるを得なくなるからだ。ひとたび「不思議大好き→スピリチュアルでござい」という方程式が完成すると、その条件づけから逃れることは難しい。確かに瞑想や悟りは不思議な現象であるが、本来の意味は思議し難いがゆえに不可思議と名づけるのだ。興味津々ドキドキワクワクとは無縁だ。悟りとは、思考の彼方に存在する生命的地平を表す言葉である。


 本書は空前絶後の内容で、経典に位置すべき一書である。独白によってクリシュナムルティの内面世界が赤裸々に綴られているためだ。1961年6月から7ヶ月間にわたって、何かに取り憑かれたかのように書き上げられた。

 6月18日〔1961年ニューヨーク〕
 夕刻、〈それ〉はそこにあった。突然〈それ〉はそこにあって、部屋を壮大な美と力と優しさで満たした。他の人たちも〈それ〉に気づいた。


【『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティおおえまさのり監訳、中田周作訳(めるくまーる、1985年)以下同】


 巻頭から最後に至るまでこのような記述が続く。クリシュナムルティは27歳の時、啓示的な宗教体験をしている。

 驚くべきことだが、この「プロセス」と称する状態は晩年に至るまで断続的に現れたという。講話の最中に訪れたことも、しばしばだった。確かにDVDを観ると、静かに瞑目した後で開かれた眼には、明らかに聴衆ではなく自分の内側を凝視しているような光がある。

 19日
 夜通し、目を覚ますたびに、〈それ〉はそこにあった。〔ロサンジェルスへ飛ぶ〕飛行機に向かう時、頭が痛んだ。――頭脳(ブレイン)の浄化が必要だ。頭脳はあらゆる意識の中心であり、意識がより注意深く鋭敏であれば、頭脳はより明晰になる。頭脳は記憶という過去の中心であり、経験や知識という伝統の貯蔵庫である。そのため頭脳は限界づけられ、条件づけられている。それは計画し、考え出し、推論する。だがそれは限界の内で、時空の内で機能するのである。従ってそれは全体的なもの、包括的なもの、完全なものを明確に述べたり理解したりすることはできない。完全なもの、全体的なものは心(マインド)である。それは空っぽ、完全に空っぽであり、この空性(くうしょう)の故に、頭脳は時空の内に存在する。頭脳がその制約、貪(むさぼ)り、羨望、野心を自ら浄化した時にのみ、それは完全なものを理解することができる。愛がこの完全なものである。


 明晰さとは思考ではなく感覚である。そしてクリシュナムルティが説く「見る」ことは直観を意味している。思考は時間に支配され、感覚は時間を打ち破る。悟りは思考でも理論でも概念でもない。時間というx軸を稲妻のように縦方向へ切り裂くy軸が悟りなのだ。


 人生は時間的に有限であり、肉体は空間的に有限である。この有限性を突き破ったところに無限が立ち現れる。多分そういうことなのだ。

マドラスへと向かう〕混雑した飛行機の中は暑く、8000フィート上空のこの高度においてさえ、涼しくなるような気配を見せなかった。その朝の飛行機の中で、突然全く不意に他性(アザーネス)が到来した。それは決して同じものではなく、常に新鮮で、常に予期せぬものだった。奇妙なことは、思考がそれを反復したり、再考したり、たやすく調べたりすることができないということである。記憶はそれに何の関与もしてはいない。というのもそれは起こるたびにすっかり新しく思いがけないので、後にどのような記憶も残さないのである。それは全的かつ完璧なできごと、事件であるため、後に記憶としての記録を残さない。従ってそれは常に新鮮で、若々しく、思いがけないものである。それは驚異的な美と一緒にやって来るが、それは雲の見事な形や光、限りなく青く優しげな青空のせいではない。その信じ難いまでの美にはいかなる理由や原因もなく、そうであるが故にそれは美しいのである。それはすべての事物を取り集め、感じ、見ることができるように煮詰めたものの精髄ではなく、かつて存在し、今存在し、これから存在するであろう全生命、永劫の生の精髄なのであった。それはそこに存在し、美の猛威であった。


 私はここに、諸法無我から諸法実相への飛翔を見る。空観が空観で終われば、極端なニヒリズムに傾いてしまう危険性がある。一切を空なるものと達観する時、その眼差しは存在として屹立する。


 真空が一切のものを吸い込むとすれば、空とはまさに慈悲の異名なのであろう。生の全体性を悟れば、万物への慈愛が泉のようにこんこんと湧いてくるに違いない。


 法華経鳩摩羅什訳)において諸法実相は十如是と説かれている。十如是とは、相(形相)・性(本質)・体(形体)・力(能力)・作(作用)・因(直接的な原因)・縁(条件・間接的な関係)・果(因に対する結果)・報(報い・縁に対する間接的な結果)・本末究竟等相(相から報にいたるまでの九つの事柄が究極的に無差別平等であること)を意味する。


 瞬間的な生命の断面に一貫性があることを示したものといってもよかろう。生命が苦しみを感じていれば苦しみの十如是となり、喜びを感れば喜びの十如是が現れる。相だけ苦しいけど、性は喜んでいる状態はあり得ない(笑)。


 クリシュナムルティの独白は悟りの十如是を示したものと私は受け止めた。だが彼は、それを目指せとは言っていない。ここが大事なところだ。「私のように悟れ」となれば、隷属的な関係性が成り立ってしまう。クリシュナムルティはグル(導師)を一貫して否定したのだ。

 夕べの光の真っ只中で、丘陵がさらにその青みを増し、赤茶けた大地がいっそうその豊かさを加えていくと、あの他性(アザーネス)が祝福を伴って、静かに到来した。一瞬ごとにそれは驚嘆するばかりに新しいが、なおかつそれは同じものである。それは破壊と傷つきやすさの強さを伴った限りなき広がりであった。それはそのような充満と共に到来し、一瞬にして過ぎ去っていった。その一瞬はいっさいの時間を超えていた。疲れきった一日だったが、頭脳は不思議にも敏感で、観察者なくして見つめていた。それは経験を伴うものではなく、空(くう)からの〈見ること〉であった。


 何と、悟りとは他性(アザーネス)であった! 悟りとは見出すものではなくして、向こうから訪れるものなのだ。


 ブッダが悟ったのは境地の二法であった。「境」は森羅万象の本来の姿のことで、「地」はその本質を照らし出す智慧を意味する。つまり、条件づけから解き放たれて本来の自分を発揮すれば、智慧の光は他性(アザーネス)を捉えることができるのだ。


 この不可思議の境地をクリシュナムルティは「生の全体性」と名づけた。これが本末究竟等である。


・『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ
クリシュナムルティの三法印/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムルティ
八正道と止観/『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良
「愛」という言葉/『未来の生』J・クリシュナムルティ
悟りの深層
西洋におけるスピリチュアリズムは「神との訣別」/『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース