古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

日本仏教の黎明を告げた鎌倉仏教

まえがき


 鎌倉時代には、世界の宗教史上にもまったく例をみないほど、すぐれた人材が相前後して輩出して、新しい仏教を展開した。この史上の景観は、偶然に展開したのではない。武士と呼ばれる新しい階級が、これまでの貴族の権力を押しのけて台頭し、貴族と結ぶ南都北嶺の仏教をささえてきた律令体制にかわる封建体制を建設した必然の結果として、新仏教の誕生を促したからである。古い仏教では、新しい時代の要求にはこたえられない。新しい時代は、また新しい宗教を要求するのである。
 律令体制から封建体制への変革期を迎え、武士階級がさっそうと歴史の舞台に登場しても、民衆の生活が目にみえて幸福になったわけではない。かえって、変革期に特有の新旧権力の相剋は、乱世を招き、惰眠をむさぼりつづけてきた王朝時代よりも、いっそう苛酷な境遇のなかへ、民衆をまきこんだ。加えて、続発する天災地変と飢饉疫癘(ききんえきれい)は、新しい時代の到来とはおよそうらはらに、多くの貧しい民衆を不幸のどん底へ突き落していった。当時の民衆にとって、生きるということは、どうすれば死なないですむか、ということにひとしかった。このような、限界状況へ追いつめられた人びとに、希望をあたえうるものがあるとすれば、仏教をおいてほかになかった。希望をあの世にかけるにせよ、この世につなぎとめるにせよ、民衆は、宗教なしに暗い絶望を明るい希望へ転ずることはできなかった。しかし宗教といっても、南都北嶺の古代仏教には、中世の人びとの肉体と魂の苦悩を解決する力は、もはやほとんどうせていたのである。
 このようなときに、土くさい坂東武者が台頭したことは、庶民のなかのエリートたちに大きな刺激と勇気をあたえ、世俗の権力を欲しないもの、あるいは昇進コースから疎外された失意のものは進んで仏門に殺到した。仏門は、そいう人たちの欲求不満に、ある程度こたえてくれる世界でもあった。こうして仏教界には、錚々たる人材が集まったのである。
 鎌倉仏教のなかで後世に大きな影響をおよぼした人として、親鸞道元日蓮の3人をあげることは、こんにち学界の定説となっている。もっとも、鎌倉時代にまでさかのぼってみると、法然や一遍は親鸞より著名であったし、道元栄西の名声のかげに隠れていた、といえる。日蓮になると、親鸞の場合もそうであるように、当時の史書には全然その名さえ記されていない無名の凡僧にすぎなかった。ところが、いったん鎌倉時代が経過してみると、親鸞の念仏は漸次、法然や一遍のそれを追いこし、道元曹洞宗栄西臨済禅をしのぎ、日蓮の法華もせりあがって、比叡山の法灯をゆるがすようになる。
 開祖滅後の歴史的地位のこのような変動は、いうまでもなく、彼らを開祖とあおぐ教団勢力と布教活動の結果である。これを、後世に影響をおよぼした歴史的事実として重視するならば、親鸞道元日蓮の3人を鎌倉仏教の代表者とする理由は、じゅうぶんなりたつように思われる。しかし、理由はただそれだけではない。彼ら3人の信仰と思想の体系にふくまれた豊かな価値は、さまざまな制約と限界をもちながらも、現代の時点からも、客観的な評価にたえられるからである。これは、他の鎌倉時代の新旧仏教者の残した遺産にはみられない現象だといってよい。親鸞の抒情的な人間性と愛欲との葛藤、日本人には珍しい道元の深い論理の思索、そして日蓮の苛酷な受難の生涯における自己形成へのひたむきな奮闘は、ただこのことだけをとりあげても、数世紀の時間の距離をこえて現代に訴える。親鸞道元日蓮の3人によって鎌倉仏教は思想の豊かさを増し、これまでの庶民不在の日本仏教に、はじめて庶民が救いの正客として招かれた。
 無から有は生じない。日本仏教の黎明を告げた鎌倉仏教も、実は南都北嶺の冥闇のなかからぬけだしてきたのである。とくに北嶺と呼ばれた日本天台宗の総本山比叡山は、新仏教の母胎となった。また天台・真言の二つの仏教の背景となった平安時代のふところのなかで、鎌倉時代をまっていっせいに開花する新仏教の芽が、徐々にはぐくまれてきたのである。
 本書は、新仏教におよぼした旧仏教の影響をとくに重視している。新仏教の栄光は開祖一代でつき果て、その滅後は、各教団がそれぞれ外郭的な発展をとげたにもかかわらず、その発展に見合うような思想と信仰の遺産は発展させられなかったという観点を強調した。このことは、門下の力量不足や南北朝以降の時代の貴族的反動化のせいばかりではなく、さかのぼって探究すると、新仏教の開祖の思想と信仰の泉にも、神祇崇拝や王仏冥合の教説や密教的呪術との妥協が深く沈澱していたからである。
 私は本書をつうじ、彼らの仏教における新しさと同時に古さを摘出し、仏教に関心を有する人たちに、鎌倉仏教の遺産を前向きに継承する仕方を考えてもらいたいと思っている。戦前と戦後の断想を無視する明治100年の掛け声におどらされて、当然、払拭されるべきはずの歴史の垢までが墨光を放って、人びとをふたたび悪しく魅了することのないよう、私はここで、鎌倉仏教の栄光と同時に、挫折の悲惨に眼をそらさなかったつもりである。もとよりその意図は、鎌倉仏教を戦後の日本に正しく寄与させたい、ということ以外にない。本書を、鎌倉仏教の批判的な概論書、または入門書として読んでいただければまことに幸いである。
 なお本書では、原典からの引用は便宜上、新仮名づかいに改め、漢文や和漢混淆文は和文にかえ、必要に応じて意訳した場合も多い。
 最後に、本書の執筆をおすすめいただいた東京教育大学教授家永三郎氏に対して、心からお礼を申しあげたい。


 1967年3月下旬
  著者


【『鎌倉佛教 親鸞道元日蓮』戸頃重基〈ところ・しげもと〉(中公新書、1967年)】


鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮