古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

 ・ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」
 ・人を殺してはいけない理由
 ・日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語
 ・友の足音
 ・真の無神論者

『仏陀の真意』企志尚峰
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬


 生き生きと躍動する「人間ブッダ」の姿が浮かび上がってくる。三十二相八十種好という化物じみた様相もなければ、仏像みたいな金ぴかの姿もない。ありのままのブッダは、ふてぶてしいまでに自分を信じ、人間を信頼した。それでいて、独善とは無縁であった。横溢(おういつ)する智慧はトリッキーな角度から、相手の先入観を揺さぶる。ブッダは「問う人」でもあった。ここには、救済する仏の側から救済される衆生の側へという一方通行は存在しない。「対話」こそブッダの魂であり真骨頂であった。


 ブッダは何と戦ったのか。そして、何を打ち破ろうとしたのか――

 この“日常の重力”が、仏教の“サンカーラ(パーリ語)”、“サンスカーラ(サンスクリット語)”の概念に通じてゆくことを、後に理解していただけるでしょう。疑われずに続く常識、慣性の法則にしたがって、今までやっていたから、みんながやっているからと続く習慣。それがサンカーラです。ブッダはこれをうち破ることを主張したのです。バラモンが行っていた水浴が、まさにその一つです。


【『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥第三文明社、2000年)以下同】


「サンカーラ」というのは、通常は「行」とか「反応」と訳されているようだが、友岡雅弥は「皆が当たり前と考えている常識および社会構造」という意味合いで使っている。


 人は生を享けた途端、緩やかに動く巨大なエスカレーターに乗せられる。そして躾(しつけ)や教育という名のもとで、共同体(家族、地域、国家)の文化や価値観を押し付けられる。義務教育が終了するまでの間に、善悪の基準を叩き込まれ、正邪のルールを刷り込まれるのだ。「何が正しいか?」「お国のために死ぬことだ」――つい半世紀ほど前にはこんな正義がまかり通っていた。


 ブッダが見据えたのは、人間を抑圧する「悪しき文化」だった。それは、「権力者にとって都合のいい文化」と言い換えることもできる。いつの時代でも権力者が必要とするのは兵士と労働者だ。早い話が“奴隷”だ。


 友岡雅弥は、西洋の英知がブッダ智慧を志向していることを検証しつつ、エリアス・カネッティの言葉を枕にして更に踏み込む――

 その様な「すでにつくられた理想」がサンスカーラであり、またその「理想像」にあわせるために目の前の人を鍛造(たんぞう)し、改造してゆくさまざまな慣習、儀礼がサンスカーラなのです。
 人はその社会の位置づけに応じた身体を訓練(ディシプリン)によって形成してゆく、というのはミシェル・フーコーの鋭い指摘です。
 フーコーの指摘は近代についてのものです。が、その指摘はやがて「権力論」しかも、bio-pouvir' つまり特別な権力者が行使する権力ではなく、健康的でソフトで“自主規制的”な「生にまとわりつく権力」の分析に進んでゆきます。とすれば、まさに、虚構された「社会制度」が持つ暴力の問題を真っ正面からとらえたブッダの認識の先駆性には、驚きを禁じえません。
 社会がみとめたものを“善”とし、一列に並んでそれを目指す。そうでない人を異者として排除するようになる。ある集団に属し、“一人前に”生きることがもたらす「習慣」という名の「生命の変形」――なんと不気味なのでしょう。ブッダは人の心の深層に潜む、この欲望の不気味な影を見たのです。


 教育システムが権力者にとっての濾過(ろか)装置だとすれば、東大出身者は権力者の思惑通りに完成したフィギュア(人形)ということになる。そして、エリート官僚に至っては「完成されたサンスカーラ人」といってよい。彼等の目的は何か? ヒエラルキーの維持に決まってるよ。こうして組織の目的が組織の維持となった瞬間から、組織は崩壊し始める。これが歴史の鉄則である。


「自主規制的」に権威に従う心理構造を岡本浩一は「内面化」として次のように考察している――

「同調」「服従」「内面化」は、人が集団に従うときの、不本意さの程度に応じた用語である。もっとも不本意なものが服従である。不本意だという感覚がある限り、服従服従以上にはなり得ず、「無責任の構造」も拡大はしない。他方、不本意ながら、従っているうちに、やがて、従っている不本意な行為の背景にある価値観を、自分の価値観として獲得してしまうことがある。それが内面化である。服従や同調から内面化が生じるプロセスが、少なくとも一握りの人たちの心に起こることによって、「無責任の構造」が維持されるのである。


【『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】


 社会の常識を疑うことは何とか可能だ。しかし、自分の価値観を疑うことは容易な作業ではない。仮にできたとしても、独善性という落とし穴が待ち受けている。それ自体が「新たなサンスカーラ」となるかも知れないのだ。


 ここまで考えてようやく気づかされるのだ。ブッダがなにゆえ、人間の中へ飛び込んで対話を重んじたのかを。対話とは単なる話し合いのことではない。互いの生き方を厳しい問いかけによって再構築する熾烈(しれつ)な魂の打ち合いなのだ。


常識を疑え/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン