古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

 ・ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」
 ・人を殺してはいけない理由
 ・日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)
 ・友の足音
 ・真の無神論者

『仏陀の真意』企志尚峰
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬


 思想とは生きるものである。いや違うな。反対だ。生きざまこそ思想である。そして、一人の偉大な人物の生きざまが語り伝えられる時、そこに論理という整合性が求められる。このようにして、思想は論理と化した挙げ句に教条主義へと変貌する。そして思想家は、論理という鎧に自分の身体を無理矢理はめ込もうとする。大抵の場合、鎧はぶかぶかだ。


 本書は、仏教思想の原点に迫ろうとする意欲的な内容で、人間ブッダの姿が生き生きと描かれている。ブッダはまさしく人間であった。そして仏教は、ブッダ智慧の言葉であった。宗教の原風景はそういったものだったのだろう。ブッダは“教義”を語ったわけではなかった。


 眩しいほどの言葉と、強烈なエピソードが次から次へと紹介されている。そして行間から溢れてくるのは、友岡雅弥の抜きん出た人権感覚だ。この著者は単なる論者でないことが明らかだ。


 舎衛国(しゃえいこく)に重篤な病状に喘ぐ男がいた。独り暮らしの男は息も絶え絶えで、排泄物にまみれて横たわっていた。男のもとへブッダが訪れる。ブッダは尋ねた。「どうしたのですか」と。


 ここで著者は名解説を加える。時代を画した『臨床医学の誕生』でミシェル・フーコーが指摘したのは、病者に対する問いかけの変化であった。その昔、病人は「どうしたのですか?」と尋ねられていた。ところが、医療技術の発達に伴って「どこが悪いのですか?」と問われるようになった。こうして病は、その人全体に関わるものから、患部という部分に格下げされた。


 ブッダに問いかけられた男は答えた――

「私は冷たい男でした。かつて仲間たちが病気になったときに私は無視し、看病しなかったのです。そのため、私は仲間を失いました。だから今、このような病気になりましたが、だれ一人として看病してくれる人はいないのです」
 痛恨の悔悟の叫びです。恐らく、声は小さくつぶやきにしかならなかったでしょう。しかし、それは孤独な心が発する慟哭(どうこく)でした。そして、その声を聞き届ける人は、孤独な彼の周りにはいなかったのです。


【『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥第三文明社、2000年)以下同】


 す、す、凄い。凄過ぎる。全人的な問いかけそのものが、人間教育の領域にまで達している。男はのた打ち回る苦しみの中で、しかと自分を見つめていたのだ。


 この後、ブッダは弟子のアーナンダ(阿難)に水を汲みに行かせ、男の身体を清め、汚れた敷物を洗い、日に干してから、再び男を寝かせてあげたという。まるで、看護師かヘルパーのようだ。そしてブッダは弟子達を集めた。

「あの場所に病の修行者がいるのを知っていますか」
「はい」
「では、その修行者はどのような病を患(わずら)っているのですか」
「内臓を患っています」
「では、その修行者を看病する人はいるのですか」
「いいえ、いません」
「では、何故あなたたちはその修行者を看病しないのですか」
「彼はかつて仲間たちが病気のときに、看病をしようとしなかったのです」
「弟子たちよ。あなたたちは、身寄りがいない。だから、相互に看病しあわねばならないのです。弟子たちよ。私に仕えようと思うなら、病者の看病をしなさい」


 これだけでも感動するエピソードである。しかし、友岡雅弥は完膚なきまでに鉄槌を下す――

 ここで留意すべきは、ブッダが「超人的な力で病を治した」などとは書かれていないことです。また、、「その病者のところに通い続け、看病を続けた」とも書かれていないのです。それはそれで美談ではあるでしょうが、根本的な問題解決にはなりません。
 ブッダが解決しようとした根本問題は何か。ブッダが治そうとした「重い病」は何か。もう御理解いただけたと思います。そうです。それは、病者とその周囲にいる人たちとの、相互不信なのです。
 ここで、ブッダがその病者のところに通い続け、看病を続けたとしましょう。その病者は確かに喜ぶでしょう。人生の達人から、さまざまに励ましを得ることもできたでしょう。しかし、恐らく、彼がこう思う可能性も出てくるでしょう。
「さすがは慈愛ある人だ。それに比べて、なんだこのジェータの園の修行者たちは。だれも見舞いに来てくれない。全然違う」
 これでは「心の病」「人間関係の病」は、さらにさらに重くなるだけではないでしょうか。
 また、「病者への看病は仏に仕えること」というブッダが教えようとした心のあり方も注目すべきです。病者は哀れむべき存在、健康なものより劣った存在ではないのです。確かに、その苦しみは取り除いてあげねばなりません。しかし、病者は病者として懸命に生きているのです。病者と健康者には差別はありません。


 もうね、何も書きたくないよ。神業(かみわざ)だわな。否、仏業(ほとけわざ)。「病者とその周囲にいる人たちとの、相互不信」と来たもんだよ。ここまで説明してもらって我々は初めて気づくのだ。「これが縁起の思想なんだ」と。縁起ってさ、人間社会・人間関係そのものだったんだね。いやあ、目が開いた。こじり開けられたよ。


 友岡雅弥恐るべし。


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