人を殺してはいけない理由/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

 ・ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」
 ・人を殺してはいけない理由
 ・日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)
 ・友の足音
 ・真の無神論者

『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬

【※本当は12月20日に書いているのだが、量が多くなってしまったため、翌日分とした】


 オウム真理教が跋扈(ばっこ)し、酒鬼薔薇事件が世間を騒然とさせた直後から、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが子供達から発せられるようになった。


 私に尋ねる者がいれば、2〜3発ぶん殴ってから、思い切り首を絞めて「何となく想像はつかないか?」と静かに語ってやるところだ。わからないのであれば、わかるまで教えてやるよ。教育の基本は、“わかりやすい原理”を示すことである、というのが私の持論なのだ。


 ところが、世の大人どもはたじろいだ。目を伏せ、返答に躊躇(ちゅうしょ)してしまった。成り立たせてはいけない質問を肯定してしまったのだ。これ以降、メディアの言論も迷走を始めたように思う。コメンテーターは人間が抱える矛盾に対して、訳知り顔でものわかりのよさを示すようになった。唾棄すべき言動が飛び交うたびに、我が家のテレビは唾にまみれ、既に溶けてなくなってしまった(ウソ)。


 友岡雅弥は、仏教の本義を踏まえた上でこう綴っている――

 人間が生まれてくることに、人間が生きることに、小難しい理由などないように、殺していけない、つまり人の生を中断させてはいけなことにも小賢しい理由などないのです。生まれていい理由などないように、殺していい、つまり人生を途中でやめさせる理由などないのです。(この「理由などない」ということが、これも今世紀最大の思想家の一人、ヴァルター・ベンヤミンが『暴力批判論』で言った「神的暴力」なのでしょう)
 レヴィナスの指摘のように「汝、殺すなかれ」というのは、上からの命令ではありません。殺される瞬間の殺される人間の叫びなのです。殺されるものたちの「殺さないで」という呼びかけが、至上命令の形で、心に傷をつけ、中止への行動を迫るのです。


【『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥第三文明社、2000年)】


 千鈞の重みのある言葉だ。かようなまでに生命は重いのだ。平和とは、万人が生命の重みを不動の域に高めた時に創出されるのだろう。縁起という思想が、自己と他者のつながりを示したものであるならば、他者の否定はそのまま自己の否定へとつながる。


 システムとしての暴力を振るう国家・官僚・軍隊・警察には「顔」がない。なぜなら、いともたやすく他者を否定する彼等の行為が、自分達の存在性を軽(かろ)しめているからだ。


ブッダは歩むブッダは語る―ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う