古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

世界とは自分が認識したもののことである/『夢をかなえる洗脳力』苫米地英人

 ・世界とは自分が認識したもののことである
 ・フランス人に風鈴の音は聞こえない
 ・運命か自由意思か~偶然と必然


「夢」+「洗脳」である。何という胡散臭さ。しかし、マイナス×マイナスはプラスに転じる。ベッチー先生、わたしゃ付いて行きますぜ。


 実は、「世界」についてずっと考えていた。「あなたの世界」と「私の世界」は別物だ。ミミズと人間の世界も全く異なっているはずだ。「自分を中心とする“場”」という考えも浮かんだが、呆気なく崩れた。同じ映画を観ても、私とかみさんの所感が違っていたためだ。やはり、人はそれぞれが異なる世界に生きているようだ。

 自分と世界との関係はこう考えてください。
「世界とは自分が認識したもののことである」
 世界とか環境とはあなたが認識したものであって、認識していないものはあなたにとって存在しないのと同じことなのです。
 こうも言い換えられます。
「モノがあるから認識するのではなく、認識するからモノがある」
 たいていは現実にモノがあって、世界があるから認識するものだと思っています。でも、実際にはそうではありません。認識したものが世界であり、認識しないものは存在しないのです。
「そんなバカな。ここにリンゴがあるからこそ、リンゴを認識するんじゃないか」


 では、こう言い換えてみましょう。
「認識したことが実際にある現実世界とは違っていたとしても、その人は認識したことだけを現実の世界であると判断する」
 これなら納得できる人も多いと思います。


【『夢をかなえる洗脳力』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(アスコム、2007年)】


 凄い……凄過ぎる。ベッチーは多分、神なのだろう。仏教に関する件(くだり)は違和感を覚える人が多いことと察する。だが、少しばかり仏教を学んできた私からすれば、あっと驚くタメゴローなんだな、これが。


「狭い世界しか知らないから、そんな料簡(りょうけん)になるのだ」――こんな科白を口にすることが私は多い。見聞を広めれば、自分の世界が広がる。ともすると、知識が体験よりも劣るといった考えに陥りがちだが、そうとも言えない。例えば我々の殆どが宇宙に行ったことはないが、地球が丸いことを知っている。この時、我々の頭の中には漆黒の闇に浮かぶ、青々とした美しい星が認識されるのだ。つまり、物凄い高い視点から地球を見下ろしている状態となっている。ベッチーが説いているのは「視点を高くする=抽象度を上げる」作業であり、これが仏道修行の止観であると言い切っている。


 夢をかなえるためには、「自分には無理だ」、「私にはできない」といった思い込みを打ち破る必要がある。「俺ならできる」と積極的になれば、その瞬間から世界は音を立てて変わるのだ。