古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

責任感の消失/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 組織や他人に服従することは、自分を差し出し、委(ゆだ)ねる行為に他ならず、自分の輪郭が曖昧に溶けてしまう。権威−服従という構造は「役割を与える−役割を与えられる」関係性になっている。つまり、服従とは機能なのである。指示、命令に従い、与えられた目標に向かって突き進むことが求められる。


 ありとあらゆる団体や組織が服従を強いる。国家とて例外ではない。何も考えることなく法律を順守し、文句一つ言わずに税金を収める人々は国家に服従しているのだ。


 そして、組織はマフィアのように忠誠心を求める。組織内を支配しているのは掟(おきて)や不文律や社内文化だ。暗黙の了解。付和雷同。沈黙の掟。裏切り者には死を。


 忠誠を誓う人々は組織の手足となる。そこに自分はない。だから当然の如く「内なる良心の声」は黙殺される。

 服従的な被験者でいちばん多い調整は、自分が自分の行動に責任がないと考えることだ。あらゆる主導権を、正当な権威である実験者に委ねることで、自分は責任から逃れられる。自分自身を、道徳的に責任のある形で動いている人物としてではなく、外部の権威の代理人として動いている存在として見るようになる。実験後のインタビューで、なぜ電撃を続けたかと尋ねられた被験者の典型的な答えは「自発的にはそんなことはしなかっただろう。単に言われた通りにやっただけだ」というものだった。実験者の権威にあらがえなかったかれらは、すべての責任を実験者に負わせる。ニュルンベルク裁判の弁護発言として何度も何度もきかれた「自分の義務を果たしていただけ」という昔ながらの話だ。だがこれは、その場しのぎの薄っぺらい言い逃れだと思ってはいけない。むしろこれは、権威構造の中で従属的な立場に固定された大多数にとって、根本的な思考様式なのだ。責任感の消失は、権威への従属にともなう最も重要な帰結である。


【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム山形浩生訳(河出書房新社、2008年/同社岸田秀訳、1975年)】


「責任感の消失」というよりは、むしろ「責任感の変質」といった方が適切だろう。責任は外側=対社会ではなく、組織の内側に向かって働く。大体、「手足」となっているわけだから責任など感じるわけがないのだ。しかも収入が絡んでいる。国の法律は守っても1円の稼ぎにもならない。だが、上司の命令はボーナスに結びつく可能性がある。それがたとえ違法性の高い命令であったとしてもだ。法令遵守(じゅんしゅ)よりも命令遵守。


 服従関係にあって責任とは、役割を果たすことを意味する。妻は夫に従い、社員は会社に従い、生徒は教師に従う。子分は親分に従い、国民は国家に従い、兵士は上官に従う。殺せと言われれば銃弾を撃ちつくすまで引き金に指をかけ、犯せと言われればレイプに手を染め、火を放てと言われれば生きている人が何人いようと焼き討ちをするのだ。


 こんな世界で服従を拒否することは可能だろうか? 服従の拒否は閉ざされた組織あるいはコミュニティを拒否することでもある。とすると、コミュニティから受けてきた恩恵をも拒否することになる。こうした損得勘定を天秤(てんびん)にかけながら、人は服従したりしなかったりしているのだろう。寄らば大樹の陰、長い物には巻かれろ。


 官僚や大企業がおしなべて信じ難い無責任を発揮しているのは、服従がシステマティックになっているためと考えられる。個人の責任などあろうはずがない。なぜなら彼等は無謬(むびゅう)なのだから。「つまづいたって、いいじゃないか 人間だもの」という相田みつをの論理は通用しない。つまり、あいつらは人間ではないのだ。神か人間の仮面をかぶった畜生なのだろう。万が一つまづいたとしても奴等は「蹴飛ばした」と言い張るのだ。


 人間の欲望は突き詰めると、「服従させたい」「服従したい」という地点に行き着く。我々にはどちらの欲望も確かに存在する。サラリーマンであれば誰もが「素晴らしい上司に恵まれたい」と思っていることだろう。これ自体、服従したがっている証拠である。


 儒教において女性は三従の道に生きるとされた。幼い時は父に従い、嫁(か)しては夫に従い、老いては子に従うと。困難な時代を生き抜くための智慧だったのか、あるいは社会の要請だったのかはわからない。そして今、我々男性陣は女性から手痛いしっぺ返しを食らっているわけだ。


 果たして我々人類は服従以外の関係性を築くことが可能であろうか? 国家と企業が人々を支配している間は不可能なことだろう。とすると国家と企業を解体し、緩やかな枠組みのコミュニティの形成と、自由かつ必要最小限の労働の仕組みが不可欠となる。


 ご存じのようにデフレとは生産過剰を意味する経済用語である。過剰な生産が環境に負荷を与える。例えば気の合った友人100人を集めて村をつくったとしよう。食糧は自給自足。医療、教育、家事の類いは分業制で行う。この村では絶対に8時間も働く必要はないことだろう。更に不透明な税金もなくなる。


 結局服従する人々は、自分から何を奪われているかも気づかなくなっているのだ。


『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ