霊は情報空間にしか存在しない/『洗脳護身術 日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放』苫米地英人


「霊魂シリーズ」第5弾。これで打ち止め。


 苫米地英人は「認識された存在」として霊へのアプローチを試みている。認知科学の立場からすれば、幻聴・幻覚の類いであろうと、本人の脳が認識している以上、「存在するもの」と仮定する。

 こうなると、霊はいないという言葉の意味がなくなる。お釈迦様のいうように実在はしていなくても、それを見て恐怖におののく人がいて、また、それと闘って勝てば消滅できるし、負ければ死んでしまう僧侶がいる以上、霊はいるというべきなのだ。「霊は存在するが、その実体は空である」というのが正確な表現であろう。もしくは「霊に実体はないが、世俗的には存在する」ということである。情報空間(仮想空間)にしか存在しないが、物理的に実在するのと同じ影響を生身の身体に与えるということだ。
 ここに洗脳の危険性がある。


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「負ければ死んでしまう僧侶がいる」というのは、多分、高野山真言宗)の修行のことだと思われる。過酷な修行によって、霊が見える状況にまで追い込まれるそうだ。手っ取り早く言えば、幻覚症状が現れるまで肉体を酷使するってことだから、ま、エベレスト登山に近い世界なんでしょうな。


 存在論というのは中々難しいところがあり、「じゃあ肉体は存在するのかよ?」って話になると、簡単には結論が出せなくなってしまうのだ。例えば、素粒子レベルで見れば、人間の身体なんかスカスカの網の目状態で、ニュートリノなんか自由に通り抜けているわけだよ。原子だって実は、その殆どが空間であることが明らかになっている。


 ま、100年も経てば、今生きている人の殆どは死んでしまうわけだから、我々の存在自体が、「単なる現象」的な側面もあるわけよ。こうなると、幽霊どころの騒ぎじゃなくなるよね。


 で、今回の結論。幽霊が見える人には幽霊が確かに存在する。以上。


洗脳護身術―日常からの覚醒、二十一世紀のサトリ修行と自己解放