古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

異なる二つの死

 5月27日、戦場カメラマンの橋田信介氏と助手の小川功太郎氏がイラクで殺害された。そして、3日後の6月1日、長崎で小学校6年生の女児が同級生に殺された。同じ他殺でありながら、余りにも異なる二つの死――。


 橋田氏は名うてのベテラン戦争ジャーナリスト。今回のイラク訪問は、米軍からの発砲によって、割れたガラスで左目を負傷したムハマド君(10歳)を支援するためだった。2度、手術を行ったものの視力がなく、痛みを訴えるムハマド君を日本で治療させようと計画していた。6月11日、手術は無事終了。愛くるしい顔のムハマド君と橋田夫人の対面も実現した。


 戦場カメラマンが戦地で死ぬのは致し方ないともいえる。それは、登山家が山で死ぬのと同じくらいの確率だろう。一方は報道し続ける限り、他方は登り続ける限り、死に神が手招きしている。


 戦地へ赴いた目的、夫人の気丈な振る舞い、3月に書き残されていた遺書、死後に実現した少年の手術――これらの全てが橋田氏の死に精彩を与えた。


 一方、長崎県の事件では、小学校6年生の女児が、ネットで「いい子ぶっている」と揶揄されたことが原因で、相手を学校内で殺害。椅子に座らせた上で、顔を押さえ、右方向からカッターで切りつけた。「首の傷は深さ約10cm、長さ約10cm。手の甲には、骨が見えるほど深い傷があったという。激しく切りつけたため、カッターナイフの先端が折れたらしく、ナイフは先端から5〜6cmが折れ、先端部分は現場に残されていた」(産経新聞)。その後、現場に15分間とどまり、自分のクラスに向かったとされる。


 救急隊員が「惨事ストレス」の症状を訴えたというのだから、凄惨な修羅場と化していたことだろう。だが、少女はこともなげに遂行した。


 長崎県では、昨年7月にも、中1男子による幼児殺害事件があり、教育関係者はショックを隠せない。


 いつにも増して朝日新聞の社説がくだらない御託を並べていた――

 学校は何らかの予兆をつかんで、事件を未然に防ぐ手立てはなかったのだろうか。そう考えると、残念でならない。(2004-06-02)


 学校側に罪をなすりつけて、気楽な他人事のような言い分は許し難いものがある。朝日新聞よ、お前なら防げたとでも言うのか? かような無責任な言論には、怒りが込み上げてならない。


 事件を防ぐ手立てはなかったのか? この発想は、事件の責任を周囲におっかぶせることで納得しようとする安易なものだ。無かったからこそ事件は起こったのだ。大切なことは、次の事件を防ぐことにある。


 そして、井上喜一防災担当相が「元気な女性が多くなってきたということですかな、総じてどこの社会も」と爆弾発言。会見後も「撤回・訂正はしない」とのたまわったそうだ。全く、この野郎の首を斬りたくなるわな。


 ショッキングな事件があると我々俗人は、何かと“理由”や“必然性”、あるいは“ストーリー性”を求めたがる。異質なものを受け容れ難いあまり、何とかオブラートで包もうと頑張る。しかし、これも無駄な行為だ。


 唐沢俊一がオタク的見地から、現実論を振りかざし、アジっている。曰く、「12歳だろうが10歳だろうが8歳だろうが、人を殺せるだけの体力があれば、殺す」。


 極論ではあるが、その辺に出回っている下らん精神論よりは、ずっと傾聴に値する。


 この他、私が参照したテキストは以下――


Publicity:「母さんには、もう会えたかい」
Publicity:被害者報道を匿名にすべし
東晋平:投げつけられる「感情」


 東晋平氏の「あきれたのは、繁華街の街頭で幾人もの通行人をつかまえて『感想』を語らせて放送したものだ。むろん、その『感想』は語られた全部ではなく、番組側が恣意的に前後をカットした断片ばかりである。そういうものが、ニュース番組で放映される」との指摘も見逃せない。


 人々は刺激を求めてやまない。メディアは「需要があるから、我々が供給しているのだ」とうそぶく。血眼になって刺激的な情報を漁るマスコミは、細部を拡大し、誇張し、デフォルメし、風船を膨らませる。受け手と送り手の欲望が織り成す相乗効果はとどまることを知らない。「もっと刺激を!」――。


 子供は順応性が高いから、やる時はやるのだ。映画『シティ・オブ・ゴッド』を見れば一目瞭然。


 もう、こうなったら、「人を殺してはいけない」という教育をきちんとすべき段階に入っているんじゃないか? 教師と親と大人が、本気で決意して、「人殺しは許さない!」、「イジメも許さない!」と具体的に行動してゆくしかない。


 深さ10cm、長さ10cmにわたる首の傷に込められた憎悪を想像する。ガラス細工のような自我にとっては、何気ない一言すら、それほどの憎悪に取って代わるのだ。加害児童は後悔することすら困難だろう。後悔するほどの人間性を持ち合わせていれば、犯行に及ぶことはなかったはずだ。彼女にとっては、腕に止まった蚊をひねり潰すような感覚だったことだろう。相手が同じ人間だという想像力すら持ち合わせていなかったのだから。


 脆(もろ)くて、儚(はかな)い自我であればこそ、何かの弾みで、心に潜む闇が噴き出してしまう。


 殺された少女の“奪われた未来”と、殺した少女の“罪を背負った将来”を思う。


 今回の事件を考える上で、最も参考になったのは以下のテキストであった――


前原政之:言葉の「凶器性」、ネットの「毒性」


 同じ“死”ではあるが、異なる二つの“死”。光と闇ほどの違いが私を困惑させる。橋田氏の場合、自分の選択肢の中に“死”が盛り込まれていた。一方、被害児童は、自分の人生を予想だにしないタイミングで奪われてしまった。しかも、クラスメートの凶行という最悪の手口によって。


 今更、何をどう言い繕おうとも、私は事件を止めることができなかった。この事実から出発しない限り、いかなる言動も空しくなってしまう。


 被害者の家族には是非とも、山下京子さんの『彩花へ 「生きる力」をありがとう』(河出文庫)を読んでもらいたい。