古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

かたち考

 私をただの古書店主と思っていたら、それは大きな間違いだ。あるいは貧乏古書店主などと想像している方がいたとすれば、あなたは不逞の輩であると断言しよう。私の職業は古書店主であるが、その正体は研究者なのだ。薄々、気づかれた方も多いことだろう。そんなあなたは人を見る確かな眼を持つ賢者である。まあ、例えてみるならば、普段はモロボシ隊員なんだが、いざという場合にはウルトラセブンに変身する、そんな風にお考え頂ければ幸いである。


 私はこれまでに数々の研究を手掛けてきたが、今回は思い切ってその中の一つをご紹介したい。思い切ってと書いたことに他意はない。あまりの難解さに読者がついて来られるかどうかが心配だったのだ。心配のあまり発刊が送れたことを付け加えておこう。


 それは「かたち」についてである。結論がハッキリしてない現段階でこれを書くことになったので、文章全体が散漫な印象となることは避けられないことを許されよ。


 たった数センチの曲線が2本。ここに無限が存在する。その線のあるべき位置や、その線の動きに対して、人は魅せられ、あるいは嫌悪を覚える。ある時は嘘の信号を発し、またある時は真実の光を放つ。2本の線によって形成されるそれは――目である。


 ここで多分、二重まぶたは3本になるんじゃないか? という反論を試みる方もいよう。そんなあなたは全くもって正しい。私の研究によれば捉えどころのない複雑性を帯びた曲線ほど魅力的な瞳であるという結果が出ている。よく言われることだが人の目や顔を文字で表現することは殆ど不可能である。どんなに頑張ってみたところで、読者が著者と同じものを想像することはできない。


「その男は短めの髪をキッチリと横分けにして撫でつけていた。すこし広い額が全体を知的な印象で染め、やや厚みのある唇と膨らみがちの顎(あご)が情の厚さを物語っていた。少しばかり喧嘩っぱやそうな顔だが、つぶらな瞳は笑うと五木ひろしのように細くなるのだった」


 この文章を読んであなたは誰を想像するだろう? これは私の顔である(笑)。


「目は心の窓」という。「弱り目に祟り目」というのもあるが、これはあまり関係ない。相手を嫌いになると「目も合わさない」冷戦状態となる。つまり、目に見えない精神性が「目」という形に現れているのだ。だから、人は一目でその人物の目から多くのものを見抜くのだ。死んで焼かれてしまえば同じような骨であるにもかかわらず、多少の肉付きの違いでどうしてこれほど異なっているのだろう。


 この世を形成しているのは形である。様々な経験をすることによって我々は形が持つ意味を学んでいる。クルマの運転をする人であれば誰もが経験したことがあると思われるが、「あ、猫の死体だ!」と思ったらボロ雑巾だったというケースなど典型であろう。我々は形で判断をしているのだ。


 花を美しく感じるのも、まずその形が最大の原因と思われる。色や香りも見逃すわけにはいかないが、花と認識するのはその形に起因している。


 ダンスやスポーツに魅了されるのは、あらゆる形を創造してみせるからではないだろうか。


 芸道が追求してきたのも美しさを追求し抜いた形に他ならない。


 形(かたち)、型(かた)、象(かたど)る、容(かたち)……。


 文字なんぞは形そのものである。


 形あるものは全て滅びる。しかし、形がある内は、目的や過去といった生の証(あかし)を奏でているように思えてならない。形を支えている力が確かに存在している。


 古本が面白いのは一冊一冊の顔が異なっているからだ。新刊書は皆、一様にキレイでマネキン人形みたいだ。誰かの手を離れた本達は、あたかも恋人と別れた女性(あるいは男性)のようだ。ぞんざいに扱われたのもあれば、大事にされてきたのもいる。多少は傷んでいたとしても魅力が失せないのは人間同様である。キーワードは引き摺った過去。


 ここまで書いてきてオチが見つからないのでヤメにする……。何かいいヒントをお持ちの方は小野宛てにメールをお寄せ下さい。