古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

目撃された人々 15

 上京して間もない頃の話だ。私はちょっと困ったことがあって、ある婦人を訪ねた。古い家だった。「どう切り出そうか……」などと思案顔のままで部屋に通された。まだ25歳の頃だったと記憶する。今となっては何を相談に行ったのかすら覚えていない。ただ、少々の緊張と不安とを抱えていたことは鮮やかに覚えている。


 その婦人は当時、私が姉とも母とも頼む人だった。彼女は私の緊張を察したのであろう「コーヒー飲もうか」と言ってくれた。この一言がいまだに忘れられない。田舎者の私は「コーヒー飲む?」と訊かれれば、すかさず「結構です」と答えていただろう。彼女は「内のコーヒーは美味しいんだよ」と言い、私がウンともスンとも言わない内に台所の奥へと消えていった。


 飾らない人柄が誰からも好かれた人だった。とにかく、よく動く人でじっとしていることがない。多忙な中にあって溌剌(はつらつ)と家事に取り組む後ろ姿から、聡明さが伺えた。


「コーヒー飲もうか」――記憶の片隅からいまだに立ち上がってくる一言である。相談事はひょっとしたら、その一言で既に解決していたのかも知れない。


目撃された人々