古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

劣悪な言論に鉄槌/『読書について』ショウペンハウエル

 ・劣悪な言論に鉄槌
 ・読む=情報処理

『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール


「辛辣な警句」といえば本書の右に出るものはあるまい。100年以上を経た現在も尚、鋭さを失っていない。

 さきほど私が期待したような評論雑誌がこのような風潮に対して立ち上がるとすれば、劣悪な著述業者、才気乏しい編纂者(へんさんしゃ)、他人の書物を盗用する剽窃屋(ひょうせつや)、頭は空(うつろ)で無能なくせに地位に飢えかつえた似而非(エセ)哲学者、霊感を欠いているのに気取りだけは一人前の月並み詩人など、要するにずらりと並んだ彼らの目には、この理想的な雑誌はその駄作をいずれ確実に処刑する巨大な曝(さら)し台として映るであろう。そうなると、執筆にうずく彼らの指も麻痺し、その結果、文学の真の救済が実現することになるだろう。実際、文学の世界では、拙劣なものは無用であるばかりか、積極的な害を流すのである。


【『読書について』ショウペンハウエル/斎藤忍随訳(岩波文庫、1960年)】


 そして21世紀になっても「積極的な害」は流れ続けている。それどころか、言論が劣化する度合いは増す一方だと言った方が相応しいだろう。特に主要なメディアであるテレビ、ラジオは、言葉の一過性を悪用している感すら覚える。頼みの綱である活字も、寿命が極端に短くなっており数年で絶版となっている以上、何らかの責任を負うといった概念自体が稀薄になっている。言論すら消費されているのが現実の姿であろう。


 悪質な言論を支えているのは、大衆の下劣な欲望である。イエロージャーナリズムが成り立つのは、それを購入する人々がいるからだ。つまり読み手の多くは、嘘偽りがあっても構わないから「刺激」を欲しているわけだ。


「じゃあ聞かせてもらうが、お前さんはエロ本の類いも読んでないのだろうな?」と問われれば、はたと困り果ててしまう。ああ、読んだとも。それも中学の頃からな。イガラシと二人で中心になって「全日本美術愛好クラブ」という会員証まで作ったとも。だが、言いわけをさせてもらうと、エロ本は言動ではない。男子中学生のロマンである。成人男性になるための階段なのだ。中学でエロ本も読んでいないような男がいれば、私は断固としてその野郎を男として認めない。


 余談が過ぎた。メディアや言論が抱える問題というものは、結局のところ受け手や読み手の問題に帰着する。観客民主主義の根っこもこの辺にあると思う。不特定多数の一般人は、いつだって責任を問われることがないのだ。で、刺激的な週刊誌の見出しに釣られて、つい暇つぶし目的でポケットから小銭を出してしまうわけだ。


 ショウペンハウエルの痛烈な言葉は、あなたにや私に向けて放たれたものと考えるべきだ。