小説のリアリティを支えているものは何か。まず、視点が浮ついてないことだ。人の目の高さなどはそう簡単に変わるものではない。地にしっかりと足を踏み下ろしているかどうか。物語の構成上、都合のよいことを書いてしまっては、読者の興醒めに手を貸しているようなものだ。如何にもありそうなことを記すには、現実生活から確かな眼で事実の底辺を見つめる姿勢が必要だろう。


 喜怒哀楽を巧みに捉える機微は、人間への興味なくして描き出せるものではあるまい。丸山は辛辣な表現が多いが、それは決して人間を否定する姿勢ではなく、ある種の理想を描くための方便と取れないこともない。悪を描かずして、善を書き表わすことはできないからだ。

 私は橋だ。


 まほろ町に架かる橋は正式な名称があるにもかかわらず、住民からは「かえらず橋」と呼ばれている。

 渡り初(ぞ)めの日、病中を押して出席した町長は、私を通って押し寄せる計り知れない利益についてぶちあげ、軍隊時代のことしか思い出せない名物老人は、「これならどんなにでっかい戦車でも通れるぞ」と百回も言った。


 12年前に橋が造られた日の出来事である。この老人の科白は笑える。ある人は舅になぞらえ、またある人は年老いた上司とダブらせることだろう。老人の回顧主義をわずかな科白で端的に象徴している。


 橋が渡されても、まほろ町に変化は訪れなかった。

 私の上を運ばれてくる利益や文化は、私の下をくぐり抜けるあやまち川の水と同様、ただ通り過ぎて行くばかりだ。


 町長が取り巻きを率いて橋を訪れる。町の活性化のためには橋を立派にしなくては、とのたまわる。

 すると収入役は「どこにそんな金があるんだよ」と呟き、助役は「前の町長とそっくり同じ発想だ」と小声で言った。


 これは全く予想通りの展開といえる。だが、丸山はこの後ガラリと変化を与える。

 いつまでもうだつの上がらない職員がくすくすと忍び笑いをし、吹き上げてくる強い風に鬘(かつら)を飛ばされないよう注意しながら、岩だらけの川底をおずおずと覗きこんだ。「死ぬにはこれで充分だな」という彼の独り言が私を震えあがらせた。


全くもって橋ひとつ取ってみても様々な使い方があるものだ。安易な希望的観測の直後で、絶望の後始末をさせようという対比が鮮やか。



千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)