私は扉だ。
語り手はまほろ町に建てられたばかりの暴力団事務所の扉だ。頑丈極まりない扉が据え付けられて事務所は完成する。
うわべは平凡そのものでも、しかし私の内側には分厚い鋼鉄の板が2枚も仕込まれていた。私を横眼で見ながら素早く通り過ぎる町の人々の眼には、ありありと好奇と恐怖の色が入り混じっていた。そこが私の付け目だった。
抗争に備えた扉を見つめる「好奇」の眼差しとは、自分達の日常生活では絶対に得られぬスリルと、血で血を洗う暴力を傍観できるまたとないチャンスへの渇仰か。はたまた、人間に潜むどす黒い感情が解き放たれた瞬間への憧憬かも知れない。
「恐怖」とは、扉の向こう側にいる人間が自分に対して悪意の牙を剥(む)き出した場合を想定してのことだろう。災いが自分に降りかかって来ない限り、人は暴力という名のショーを期待する。
見るからに粗野で、それとわからぬように小型の武器を帯びたかれらは、小指がないげんこつで私をどんどん叩き、矯(た)めつ眇(すが)めつ眺め、内側にふたつもついているかんぬきが、確実に、しかも素早く掛けられるかどうかを念入りに調べた。
ただの「げんこつ」ではなく「小指がない」と書き足すことで、文章の幅がぐっと拡大する。昨日今日その道に入ったわけではなく、きっちりと落とし前を付けられる男達であることが一目瞭然である。また、語り手である「扉」の皮膚感覚までが伝わってくる。
私は、底知れぬ潜勢力を有するかれらの世界と、法律しか頼るものがない人々の世界をきっちりと隔てた。
「扉」は作者の視点から、大人しく生きることを拒否する連中を肯定し、常識を肯定する市民を否定する。丸山得意の挑発だ。「断じて、そうではない」と言い返せる者がどれほどいるだろうか。
世界を二分(にぶん)する扉の自負までが感じられる。
傲然と構える「扉」の前に世一が現れる。「病気のために恐れを知らぬ少年が、拾ったチョークを使って私の上に落書きをした。稚拙な絵は、鳥のようでもあり、また、髑髏(どくろ)のようでもあった(同頁)」。
世一は、まほろ町の人々の「好奇と恐怖」を知ってか知らないでか、まるでアスファルトの路面に向かうように振る舞う。書かれた絵は「自由」か「死」かの選択肢しか残されていない彼等の命運を象徴するものだ。
虚仮威(こけおど)しの「扉」も、世一にかかっては画用紙程度の意味しか成さない。