野良犬


 丸山の人生観が色濃く滲(にじ)み出ている箇所である。それ故、彼が好ましく思う人間関係の距離感がよく出ていると思う。

 私は野良犬だ。


 語り手は、まほろ町を徘徊する野良犬である。

 もっともそのおかげで私は、人間に飼われている犬や、犬を飼っている人間の何倍もの自由を手に入れることができたのだ。


「人間に飼われている犬」は食べる物に事欠かない。「犬を飼っている人間」は生活に余裕がある。共に経済的な自由を手に入れた立場を指しているのだろう。“犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛めばニュースとなる”と似た言い回しだと思うが、こういう書き方が妙に上手い。どういう訳か人間と犬の立場が逆転したかの如き錯覚を生じてしまう。

 そうはいっても、私の自由の大きさを心底わかってくれているのは、世一ただひとりでしかなかった。少なくとも私のほうは、世一のそれを充分理解しているつもりだった。ほかの人間は皆人間以外の何物でもなかったが、しかし世一だけは違って見えた。彼は人間でありながら、同時に人間以外のすべてでもあった。そして私たちはいつも、互いに意識するあまり、無言ですれ違っていた。たまに眼と眼があったりすると、私たちは眩(まばゆ)いばかりの自由な身の上にあらためて気づき、大いに照れてしまい、卑下さえもしたくなり、足早に立ち去るのだった。
 ところがきょうの私たちは、葉越しに見える月の力を借りて、声を交した。私は、所詮見限られた者同士ではないかという意味をこめて「わん」とひと声吠えた。すると世一はぴたっと歩みをとめ、振り向きざまにこう言った。「されど孤にあらず」。


 思わず全部書き出してしまった。これを読んで面白いと感じない人は丸山作品を読まない方が好いだろう。理解する者同士であっても、きっちりと言うべきことは言える関係。相手に妥協し、おもねり、媚びを売るような態度は、魂を放棄したも同然なのだ。


 最後の世一の科白は哲学的な余韻があって面白い。丸山のエッセイのタイトルにまでなっている。孤にして孤にあらず。独立独歩する人間同士の共感は、マクドナルドや携帯電話で意味無き会話を果てしなくする関係とは較べようもないほどの深みがあるだろう。この一言は人生の急所を突いている。だが、現実には丸山自身にそうした人間関係があるように見えない。それこそが彼のマンネリズムの原因ではないかと私は密かに考えている。最新刊の『逃げ歌(上下)/講談社』では変化が見られるだろうか。期待と不安を抱きながらも、きっと私は買いに行くだろう。



千日の瑠璃〈上〉 (文春文庫) 千日の瑠璃〈下〉 (文春文庫)