ある種の手品を見ているような気にさせられる本である。出るはずのない場所から鳩が現れたり、こちらが持っている札をピタリと当てられた瞬間に立ち上がって来る驚愕を随所で感じてしまう。手品に使われる道具は――漢字のみである。著者はタネを明かしてみせるのだが、どうも騙(だま)されている感を拭えない。スッキリした思考、明晰な文体が、スッと脳味噌に入り込む。疑問を抱く余地が見当たらないのである。手足を縛られたままマッサージを受けているような抗(あらが)い難い魅力がある。
近代以降、「日本とは何か」「日本人とは何か」と問う思考が顕著であることを挙げ、その原因を「それは問う側が、日本人であること、日本文化に対して、異和をもつからである」(5p)としている。更にそこから「日本人であることに異和をもつということは、日本語に対して、日本人は、いくらかしっくりこない部分、奥歯に物が挟まったほどに異和感を抱いているということ」(同頁)と指摘。中国で生まれた漢語と弧島で発生した和語が絡み合う言語は、音写文字の平仮名と表意文字の漢字が羅列する異和感と、漢語をテニヲハが支える構造的な異和感がつきまとい、これを二重に分裂した言語の統一体=二重言語と著者は名づける。
ここから著者は、言葉によって人間が支配されている有り様を、文化、歴史、伝統、風習、社会事象を通し、これでもかといわんばかりに列挙してみせる。鮮やかな手並みは読む者をして沈黙の淵に追いやり、頁を繰るごとに無知の穴が埋められる爽快感に満たされる。
ソシュールの「文字は言語を表記するものだ」という説を日本語には適用できないとし、「その学問がいっこうに人間や社会の現実を解き明かすことにならぬのは、意識と言葉の深みへの考察を欠いているからである」と斬り付ける。更に返す刀で言葉の姿をこう記してみせる。
発語は人類史を垂直に立てた底知れぬ深みを宿している。
言葉は、おそらく、忘れた言葉を想い出す時のように立ち上がってくる。
たとえば人の名をど忘れして、想い出せない時がある。その時、もやもやした「しこり」や「さわり」のようなものが胸中に浮かぶ。想い出さなければ、気持が悪くてしかたのない「もやもや」としたもの――それが言葉の原系とも呼ぶべきものであり、その「もやもや」が、脳ではなく身体のどこかに浮かぶところの名状しがたい感覚であるところに、言語や思考というものが、全身体的なもの以外にありえぬことを証している。(14p)
私が今、所感を記そうとしながら、中々上手い文章にできない状況を代弁してくれるような一文である(笑)。まあ、この「もやもや」をご理解願いたい。
音楽、演劇、落語、絵画から国家に至るまでを“漢字”によって解いてみせる著者は、漢字の世界から派遣された手品師に違いない。
・石川九楊