古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

歴史とは「文体(スタイル)の積畳である」/『漢字がつくった東アジア』石川九楊

 凄い言葉だ。中々出て来るものではあるまい。さすが“漢字思想の語り部石川九楊である。タイトルだけでは意味が理解しにくいと思われるが、以下のテキストを読めば多少なりとも腑に落ちることだろう。

 まず歴史とはいったい何でしょうか。歴史というのは、過去の出来事にとどまらず、現在に連なり、現在を絶えずつくり出している力ですから、結論的にいえば「文体(スタイル)の積畳である」と私は定義したいと思います。言葉のスタイルや言葉以外のさまざまな文化ジャンル、また言葉の前段階での表現のスタイルを人類史は蓄積してきました。そういうスタイルの積み重なりを歴史と考えるのが一番いいと思います。


【『漢字がつくった東アジア』石川九楊筑摩書房、2007年)以下同】

 そういう意味で人間は「言葉する存在」です。
 その言葉は、世界を切り取って名付けていく単語つまり語彙と、文体(スタイル)からなり、これらのあり方が人間の思考を決定づけています。文体というのは語彙を載せる船のようなもので、その船が思考の枠組みとして、あるいは文化として一番大きな力を持っています。われわれはその船を離れて思考することはできません。思考や行動は具体的な言語のなかに微粒子的に存在し、これと一体のもので、自分たちの文体のあり方をどのように変えていくかを考えないかぎり歴史が変わっていくことにはなりません。またこのことは、人間の歴史が、言葉(語彙と文体)から離れられず、したがって言葉の枠組が変われば、歴史もまた異なった姿であらわれる事実を意味します。


「自分たちの文体のあり方をどのように変えていくかを考えないかぎり歴史が変わっていくことにはなりません」という指摘が痛烈。言葉は他者とのコミュニケーションへの道を開いたが、言葉が人間の思考を支配したのもまた事実だ。ヒトは言葉を離れて生きてゆくことができない。大体、「言葉以外」で考えることが不可能だ。


 稚拙な若者言葉でもなく、泡沫(うたかた)のような流行語でもない。あらゆる差異を乗り越えて、万人の胸に響き、轟くような“新しい言葉”が、歴史を大きく塗り替えてゆくのだ。それは、技巧に富んだものではなく、本来の人間に備わった素朴な“何か”であろう。極端とは異質な、中庸を志向する感覚から発せられるに違いない。



文体とスタイル/『書く 言葉・文字・書』石川九楊
信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節
香る言葉/『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ