古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

人生と選択

 人生色々と言う。十人十色とも言う。その人ならではの個性(まあ良し悪しは当然あるものとして)を指す言葉であろう。その人の人生を象(かたど)る個性とは「選択」によってつくり上げられるものと推察される。


 私は以前から「動物と人間の違い」に興味があり、その思索はいまだ止むことがない。食べて、寝て、子を産むだけでは動物とそれほど変わりがない。感情に左右され、後先を考えない人を「動物的」と形容する。日本人をして「エコノミック・アニマル」と呼んだ時代もあった。エゴイスティックに金儲けする様を「アニマル」と言うのだから、これは国際的に共通する感覚とみえる。


 昔のドラマなどでは、男女の諍(いさか)いのシーンがあると「犬畜生にも劣る人間」とか「けだものっ!」なんて台詞が聞かれたものだ。いずれも本能に身を任せ、失敗した時に使われるところに特徴がある。


 本能を制御するには知性と忍耐が必要とされる。取り敢えず例の娘をモノにしたいが、自分には大した魅力がない。こうした場合、男性の大半は犯罪の直ぐ隣に居合わせている状態と言えよう。独りベッドの中であれこれと想像を逞しくした経験が、そこのあなた! 今これを読んでいるあなたにもあったはずだ。あなたが10代であれば、今まさにそれが行われる寸前であったとしても、私は別段、驚かない。まっ、見たいとは思わんがね。妄想が過ぎると、そのために人生を棒に振ってもいいとまで思い込んでしまう。だが、普通の男であれば、夜の妄想は妄想としておいて、現実生活の中で何とか自分を高めようと努力するものだ。ここにおいて知性が勝利したわけである。たとえ恋には破れたとしても、だ。


 今時の若い連中の中には「好きなことができれば幸せ」と考えている能天気な輩が多く見受けられる。この論理は大変にわかりやすく「嫌いなことをするのは不幸」という感覚に支えられている。問題を単純化して考えれば、答は直ぐに見つかるものだ。では、食べたい時に食べ、寝たい時に寝て、遊びたい時に遊ぶことが人間にとって果たして幸福なのであろうか? イエスと言う人は来世には猫にでもなって生まれることを神様にお願いした方が良いだろう。こうした手合いは、金持ちの家の飼い猫程度の満足感しか自分の人生に求めていないのだろう。


 人生を決定づける象徴的な行為──それが「選択」であると私は思う。自由とは選択する権利があるということに他ならない。それゆえ何をどう選択するかによって人生は決定されてしまう。幸福とは、自分の選択が正しかった時、価値があった時に感じる満足感の謂いであろう。そして、人間のみが持つ時間という概念によって、未来を選択しているといえよう。


 この選択の根拠となるのが、思想であり価値観であり、そこには人それぞれの選択肢がそれこそ無数に存在している。瞬間的な情熱による選択がどれほど無謀且つ、無定見極まりないものであるかは、これ以上は望むべくもないと判断して選んだ結婚相手に如実に現れる。苦い思いをしている方も多いのではないか? 私はまだ独身なので、結婚に関しては無数の選択肢が残されている。しかし、独身ではあるのだが貴族ではないので、可能性としての選択肢は無数にあるが、現実の選択肢は極めて少ない。する、しないという選択問題の他に「できない」というコースも充分考えられる。


 まあ、それはそれとしておいてだ。結婚も早ければ数ヶ月で「こんな女だとは思わなかった」とか「人生最大の貧乏くじを引いてしまった」などと思っている夫婦もいるはずである。そういう感慨・反省・後悔を抱いている人は「所詮、見る目がなかったのだ」と慰める他ないかも知れない。


 人生は選択だ、という私の持論を更に援護射撃してくれるものがある。それはギャンブルだ。競馬、麻雀、ルーレット……。ギャンブルこそは選択行為による自己表現の最たるものであり、迷い選んで決める様は、まさしく人生の縮図といえよう。私はギャンブルの方はからっきしだが、そう考えるとギャンブルに血道をあげる人々の動機が垣間見える。彼等は損得勘定を無視して、短い生を何度も生きているのだ。彼等が信じて疑わないのは「最後の勝利」であろう。どんなに負けが込んだとしても足を洗わない理由がそこにあるのではないだろうか。


 人間にとって生命に勝るものはない。だが、それが脅かされたとしても自己の信念に殉ずる生き方もある。人を救うために自分の命をなげうつ場合もある。これこそ、人間にとっての究極の選択肢であるに違いない。


 話を軽いレベルに戻そう。


 趣味の世界においては「センス」が問われる。「見る目」があるかどうかが問われるわけだ。好事家(こうずか)などと言われる人達はこれを磨いて、競い合うんでしょうな。


 さてここで、あなたにとって、切実且つ身近な問題となるのが「本の選択」である。これから先の一生、読書を楽しめるかどうかは、一冊の本との出会いによって決まってしまう。そして、この責務を、古書店主であるわたしは一身に背負っているのだ。その一冊と巡り会うことができれば、そこから読書の無限の扉が次々と開かれる。後は樹木の根のように枝分かれし、地中深く根を張り巡らせてゆくに違いない。


 次に何を読もうかしらん、と迷っているあなた! あなたが読むべき本は我が雪山堂にありと胸を張って断言しよう!


 自由とは無数の選択肢に支えられている。そして、私の部屋には無数の洗濯物が山となっている──。