古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

六道輪廻する世界/『英知の探求 人生問題の根源的知覚』J・クリシュナムーティー

三界(さんがい)は安きことなく、なお火宅のごとし」(『法華経』譬喩品〈ひゆぼん〉)と。そして人類は六道輪廻(ろくどうりんね)のスパイラルから抜け出すことができない。


 1970年にスイスのザーネンで行われた講話と討論会が収められている。クリシュナムルティはミステリ以外の本を読むことがなかったが、世界の現状と動向を卓越した表現で鮮やかに切り取ってみせる──

 この世の中は混乱と暴力ですさまじいものになっていて、「社会改革」、「異なる真実性」、「人間の偉大な自由」などを求めてさまざまな反乱が起きています。あらゆる国、あらゆる地方で平和の旗のもとに暴力がふるわれ、真理の名のもとに暴君と貧困があり、多くの人びとが飢えています。そしてその暴政のもとに抑圧と社会不正が行なわれ、戦争、徴兵、懲役拒否などがあり、憎しみは正当化され、あらゆる現実逃避が生活の標準として認められています。これらすべてに気づくと、人は、その行動、思考、遊びに混乱を感じ、迷います。「どうしたらよいのだろうか? 活動家の仲間に入るべきか。精神的孤独の中に逃げ込むべきか。古い宗教観念に戻るべきか。新しい組織をつくるべきか。個人的な先入観や好みを維持し続けるべきか」と考え、いかにしたら別の人生を送れるかを知りたがるのです。(1970年7月16日)


【『英知の探求 人生問題の根源的知覚』J・クリシュナムーティー/勝又俊明訳(たま出版、1980年)以下同】


 原稿なしでこれほどの言葉が溢れ出るのだから凄い。去る土曜日にDVDを観たが、何かに衝き動かされるように話す姿が忘れようにも忘れられない。クリシュナムルティは講話の際に自分のことを「話し手」(speaker)と呼ぶ。彼の声帯と身体は文字通りスピーカーと化して、真理の共鳴音を発している。そしてそこには「完全なる対話」が存在した。


 改革とは、伝統の上に装飾される変更のことである。ケーキのスポンジはそのままで、クリームの色や果物の種類を変える程度の変化に過ぎない。すなわち古い伝統は維持される。つまり改革が本質的な変化を促すことはないのだ。


 特に我々日本人は極端な変化を嫌う民族性がある。徳川300年の名残りなのかもしれぬ。天下泰平、ぬるま湯、日向ぼっこ……。


 そしてクリシュナムルティは常に両極端を提示することで、聴衆を全体的な視野へと誘(いざな)う。例えば「戦争、徴兵、懲役拒否」だ。反戦の立場を選択したとしても、社会に取り込まれている場合がある。反戦運動は国民のガス抜きとなる。革命の懸念が生じないうちは、権力者も反戦運動を容認する。民主主義に反対意見は不可欠であるからだ。


 大体、多くの反戦運動はムードだけである。運動の実効性よりは、参加することに意義があるような節も窺える。口先だけの平和が、戦地で殺される人々の耳に届くことは決してないだろう。


 この問いかけは普遍性をはらんでいる。いかなる時代、どんな国家に住んでいようと、同じ不安、同じ迷い、同じ恐怖を感じる人々がいるはずだ。


 なぜ人類はいつまでも同じことを繰り返すのであろうか? それは我々が条件づけに支配されているからだ──

 問題は、人間の頭脳はまるで同じ曲を何度も流しているレコードのように、古い習慣の中で働き続けているということです。その雑音(習慣)が鳴り続けている間は、何も新しい曲を聴くことができません。頭脳は今日まで、一定の方法で考えたり、その文化、伝統、教育に従って反応するように条件づけられてきました。ですから、その頭脳が新しいものを聞こうとしても無理なのです。そこがわたしたちにとって難しいところです。テープに録音されたものは、消して新たに録音することができますが、頭脳というテープに長いあいだ記録されたものを消して新たに録音することは、とても難しいことなのです。わたしたちは、同じ形式、同じ理想、同じ物理的習慣を何度も何度もくり返しているので、何ひとつ新鮮なものがつかめないのです。
 しかし、人間はその古いテープ、古い思考方法、感覚方法、反応方法、無数の習慣を払いのけることができることを私は保証します。本当に注意を払えばそれができるのです。とてもまじめに聞いていれば、聞くことに夢中になり、その真の鑑賞行為が古いものを払いのけます。試してごらんなさい。いや、そうしなさい。(1970年7月16日)


 これこそが六道輪廻の原因なのだ。人類は戦争とバブル(好況)を繰り返す。つまり暴力と金だ。これこそが資本主義を支えているルールである。


 教育は条件づけの最たるものであり、洗脳といってよい。我々は長ずるに従って、教えられ、与えられた価値観に束縛される。そもそも社会で生きること自体が、社会のルールに額(ぬか)づいていることになる。


 であるがゆえに、我々は絶対に「魂の自由を目指せ」とは教育されない。我慢し、努力し、周囲の役に立つよう誘導される。「働く」とは「はた(傍)にいる人々を楽にすることである」ってなもんだ。アウシュヴィッツ強制収容所の門には「働けば自由になれる」と書かれていた。


 クリシュナムルティは「古いテープを払いのけることができる」と断言している。自分の思考を観察するには、思考から離れる必要がある。なぜなら観察するには距離が必要なためだ。これは「欲望から離れよ」と説いたブッダと完全に一致している。


 分断された心が世界の混乱となって現れている。とすれば、火宅(かたく)は私の内側に存在するのだ。観察と傾聴によって心が統合された時、我々は「生の全体性」を初めて知ることができる。