古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

オンライン古書店の風景

 吾輩は店主である。まだ儲かってない。


 なぜ本を売るのか? 部屋に本があるからだ。


 このわずか2行が我が人生の現在を語り尽くしている。電網超厳選古書店「雪山堂」を立ち上げて、早、3ヶ月。振り返るほどの日月(にちげつ)は重ねていないが、雪山(せっせん/ヒマラヤ山脈の意)の登攀(とうはん)を目指す第一歩として、記し残そう。


 私は本が好きだ。どのくらい好きかというと、ただ、ひたすら好きなのだ。読書も好きだが、それ以上に本が好きなのである。本がないと猛烈な居心地の悪さを感じる。呼吸が乱れ、動悸・息切れ・めまいに及ぶ場合もある。「何を大袈裟な」と言うなかれ、わかる人にはわかってもらえることだろう。これを“同病相楽しむ”と言うことにしよう。


 例えば本を持たずして電車に乗ってしまうことが稀(まれ)にある。ドアが閉まりホッと一息ついた直後に「うっ、ガッ!」といった具合で気付くことが多い。旅行先で持病の薬を忘れたことに気づいたお年寄りの状況に酷似している。応急処置としては、中吊り広告を読み漁ることしかない。これが食堂の場合だとメニューを繰り返し読む羽目になる。


 私がこの病を意識するようになったのは、CDショップがまだレコード店だった頃である。音楽は確かに人一倍好きだったが、レコード店に入るのが段々詰まらなく感じるようになった。FM放送で流されたわずか1曲か2曲を気に入り2800円を支払うには勇気を必要とされる時代であった。店に入りアルバム・ジャケットをためつすがめつ眺め、迷いに迷った挙げ句、たった1枚のレコードを選ぶ。私は人生における「選択」という行為をレコード店で学んだ。それだけではない。自分の選択に誤りが多いことまで教えてもらった。レコードを買うことはギャンブル行為そのものだった。


 傷つき、敗れ、疲れ果てた私を慰めてくれたのが古本屋だった。黄ばんだページが私には優しかった。値段も手頃なせいかハズレがあったところで敗北感は薄い。それどころか古本においては完全なるハズレは存在しないと断言しても良い。レコードに失敗した時ほどの絶望感はない。ハズレを10枚集めれば別な粗品がもらえる、というような淡い期待感がどこかにある。少なくとも、「旦那っ、いい写真がありますぜ!」と声を掛けられ、飲み屋の陰でこっそりと封筒の中身を取り出したら、猿が交わっている写真だった──というほどの騙(だま)し討ちには遭わなくて済む。


 このように、満足感・勝率・幸福度が極めて高いことも手伝って、私の趣味は、より一層、本に傾いていったのだ。


 まあそんなわけで、気がつくと36歳の秋が訪れていた。更に気がつくと手持ちの本が2000冊ほどになっていた。またまた気がつくと読んでない本が900冊を越えていた。季節は読書の秋を迎えていたが、人生は折り返し地点に到達しようとしていた。事ここに至り、私の趣味は読書ではなく「本を買うこと」であることが判明した。既に数年前から、人に読ませたい本まで買い漁り、友人や後輩に無理矢理、読ませていた。


 私は電卓を弾いて計算した。20歳から記録をとっている読書ノートによると、年平均の読書量は79冊。70歳まで存命したとした場合、残された人生で読める本の数は2686冊である。今、眼前にある未読の本が900冊強。つまり自分で読む心算があるならば、後1786冊の本を買えば間に合ってしまうのだ!


 この事実を知った時、私は「全く美人薄命だな」と呟いた。深い意味はない。立て続けに「帯に短し襷(たすき)に長し」をもじったギャグを考えたが、好いのが思いつかなかったことを付記しておく。


 オンライン古書店の風景──それは悲惨極まるものである。地球の温暖化が進んで北極の氷が溶けだし、水位が30cm上がると、数億人の生活スペースに影響が及ぶという。これと同じことが我が家で起きているのだ。最近では本を買って玄関に入るや否や映画『ジョーズ』のテーマ・ミュージックが頭の中を大音量で流れる。スチール製書棚の各段には2列ずつ並べられ、床には積み重ねられる本の山々。視界がどんどん狭くなっているのが実によくわかる。愛する本の一冊一冊が私の生活空間を浸食してゆく──。


 それだけではない。梱包材が子供2人分ほどの場所を占拠しているのだ。段ボールがデカイ顔をして、家主である私がどうして、これほど小さくならねばならないのか? しかしながら、厳寒の季節になると段ボールからは人肌にも似たぬくもりを感じる。その手触りの好さにウツツを抜かし、思わず頬ずりすることさえある。本を包むのには飽き飽きした段ボールが私を包み込もうとする。梱包材は近い将来の住居になる可能性をも秘めていた。


 こうしたことが苦痛であれば古書店の資格はないと断じて良いだろう。これはある種の快楽なのである。なぜなら、これらの本を読む人たちのために一時的に私が預かっているだけなのだから。お客さんから、読書の醍醐味を信託されているというのが私の立場である。これを譲るつもりは毛頭ない。


「読んで欲しい本しか売らない」この信念だけは手放したくない。それで食えなくなるようになれば、それまでのことだ。別の仕事を見つけて、一人、読破の旅路に赴くのも悪くはない。


 だが、すっくと背を伸ばした本や、静かに横たわる本の数々が「大丈夫!」と微笑んでいるように感じられるのは、私の甘さであろうか。