古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

差別を解消されてアフリカの魂を失った黒人の姿/『ダッチマン/奴隷』リロイ・ジョーンズ

 ・差別を解消されてアフリカの魂を失った黒人の姿

『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン


 戯曲である。私の苦手な戯曲だ。それでも手をぐいと引っ張られるようにして読み終えた。まくし立てる台詞は長文だが不思議なリズム感を奏でながら畳み込む。フリージャズのソロパートのように。


「ダッチマン」は地下鉄の中で隣り合った男女の会話で構成されている。他の乗客はエキストラだ。礼儀正しい黒人男性に酔った白人女性が絡む。女は色仕掛けを交えながら執拗(しつよう)に下卑た口調で話しかける。あたかも「白人面をするんじゃないよ」と言わんばかりに。


 穏やかに応えていた黒人がぶち切れる。「だったら白人どもが望んでいる黒ん坊の姿を見せてやろうじゃないか」といった呼吸だ。吐き出された独白は黒人の焦慮だった。

 だがな、もうひとつだけきいておくんだ。そして、これからいうことをきさまのおやじに伝えるんだ。だって、きさまのおやじこそ、すぐにもさとらなくちゃならん人間だろうからさ。そうすりゃ、彼にもさきざき計画が立とうというもの。つまり、こういってやるんだ、頭のイカレた黒んぼたちに、そうごってりと合理主義やら冷たい論理を説教するのは止めなさいってな。やつらはほっといてやれってな。きさまたちへの呪いの歌を、やつらどうしの符牒でもって、やつらが勝手にうたっていても、そいつはほっといてやれってな。それからきさまらの不潔は、単にスタイルの欠如だと勝手に思わせておいてやるんだ。ともいってきかせるんだな。そうしてさらに、キリスト教的慈善の無責任きわまる押しつけや、西欧合理主義とやらの優越性とか、白人たちの偉大な知的遺産、そのもののご託宣で、愚劣なヘマをおかすんじゃないぞ、っていってやれ。そうすりゃ、たぶん、やつらだってきさまらのいうことに耳をかすようになるだろうさ。そのときはじめて、おそらくいつの日か、きさまらがしゃべったとおりの内容を、やつらが正確に理解してくれるってことをさとるだろう。あの空想たくましい人種のすべてが。あのブルースを産んだ民族のすべての人間が、だ。そうしてまさにその日、そのとき、くそったれめ、こんりんざいまがいもなく、ついさきごろまで屈従の民だった人間たちを、半分だけ白い模範囚として、きさまらの檻に“うけいれてやる”って思いこめるようになるのさ、きさまらは。そのときもはやブルースは消える、ただし、古きなつかしのブルースとしてのこる。そして黒人の好きな西瓜も姿を消すだろう。かの偉大なる伝教精神は勝利をかくとくするだろう。かつて間抜け黒人だったものが、全部が全部、清潔で、律儀で、無駄のない生活に目をそそぐ、真面目で、敬虔で、正気をそなえた、堂々たる西欧的人間になりかわるだろう。そしてついには、彼らがきさまらを殺すだろう。きさまらを殺しても、そこにはちゃんと合理的説明がととのえてあるだろう。それは、いま、きさまらが、ととのえているのとそっくりおなじような説明となるだろう。彼らはきさまらの喉笛をかき切って、街のはずれまでひきずってゆく。そうすりゃ、死体の肉はきれいさっぱり、きさまらの骨からこそげおちるんだ。(「ダッチマン」)


【『ダッチマン/奴隷』リロイ・ジョーンズ/邦高忠二〈くにたか・ちゅうじ〉訳(晶文社、1969年)以下同】


「半分だけ白い模範囚」とは痛烈だ。いや痛切というべきか。原書が刊行されたのはモンゴメリ・バス・ボイコット事件から10年後のこと。人種差別の意識が制度でなくなるとは思えない。差別意識と被差別感情は緩やかに形を変えていったことだろう。


 ブルースの引きずるリズムは鎖の音だ。鎖は怒りとなって黒人の自我を形成したことだろう。彼らが歌い上げたのは文字通りの憂鬱(ブルーな気分)だった。


 ここにはアメリカ人となることで、アフリカの魂を失うことへの恐れが感じられる。故国へ帰るに帰られなくなった戸惑いが見てとれる。たとえ白人全員を殺したとしても、アメリカはアフリカとはならないのだ。


 結局アメリカがやったことは先住民族の大虐殺と、アフリカ人の大量誘拐だった。自由を建て前にしながら、差別はいまだに根強く残っている。しかもこの国は謝罪することを知らない。第二次大戦における原子爆弾の使用も、彼らの論理では正義となるのだ。


 もう一つの作品である「奴隷」は、ある黒人が白人の家へ押し掛け脅迫するやり取りだ。ここでもまた行き場のない黒人の焦燥感が描かれている。

 そうだ。思想だ。それを確立させねばな! それが形成されるべき場において。すなわち、究極において、その所有者と目(もく)される人間のうちに、それは確立させねばならん。それを所有するものは、おまえたち白人か? それ以外の黒人か? それとも、このおれのものか?(さいごの文句を思いかえしながら、そわそわと舞台を移動する)いや、もはやだめだ。おれのものじゃないんだ。俺はゆっくりと年季をつとめあげてきた……そおして、たぶん、あげくのはてが素寒貧だった。たぶんそんなとこだったのさ。ハッハ。だったら、いったい思想を語りうるものはどこにおるんだ、じっさいだれが語るんだ? ええ、どうなんだ? しかし、それにしても、考えてみるんだ、思想はやはり依然として世界のうちに存在しているではないか。それをものにするには、正しい判断さえあればいいんだ。つまりだ、たとえそれがどうあろうとも、偏屈者やわからず屋とは無縁のものなんだ。だって、それがそれがきれいな光り輝くものだというだけでも、われらが心のまんなかで、もろに響くというだけでも……ああ、どういえばいいんだ! (声を低くして)ほんとに、どういえばいいんだ、ただそうだというだけでも、また、それにもかかわらず、いやほんとうのところ、たとえそうであっても、つまりいわんとすることは、ただそれが“正義”であるというだけでも……いや、どんなにいってみてもすべてが無意味だ。まさに正義そのものが、あらゆる場合に悪臭を放っているではないか。正義そのものが、だ。(「奴隷」)


 形而上と形而下の混乱ぶりが見事に表現されている。「俺たち黒人は一体何者なんだ?」という悲鳴に近い。権利は与えられても、正義は実現されていなかった。黒人が自分たちで正義を実行すれば、それは暴力を伴わずにはいられなかった。


 思想とは言葉である。彼が欲したのは言葉による定義であった。価値観は引っくり返った。その途端、過去は忌むべき姿となった。「俺は奴隷にさせられたのか、それとも奴隷という境遇に甘んじていたのか」と。


 悪行は必ず矛盾を生む。そして暴力を正当化する国は必ず滅ぶ。かつて永遠に栄えた国家はなかった。欧米は今も尚、アフリカから搾取し続けている。