自爆せざるを得ないパレスチナの情況/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理

 傑作である。人権を土足で踏みにじられ、日常的に殴打され、今日(こんにち)も尚、虫けらみたいに殺されるパレスチナ人にとって、文学がどれほどの意味を持つのか自問している。底の浅いイスラエル批判には非ず。殺す側と殺される側の間に立って、懊悩(おうのう)しながら自分自身の生きる意味を探り、呻吟(しんぎん)しながら答えを見つけ出そうと格闘している。

 かつてサルトルは、アフリカで子どもが飢えて死んでいるとき『嘔吐』は無力であると語った。では、パレスチナパレスチナ人が非常事態を日常として生きているとき、小説を書き、小説を読み、小説について語ることに、いったいいかなる意味があるのだろうか――。


【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年/新装版、2015年)以下同】


 これほどの本には、そうそうお目にかかれるものではない。レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』(晋遊舎、2006年)に匹敵する内容だ。深い内省によって世界を捉え直し、人間にとって普遍的な価値を手探りしている。そして、その“厳しい瞳”が私を見つめている。


 パレスチナ問題(=イスラエル問題)に関しては以下の順番で読むことをお薦めする――

 人類の歴史は虐殺で血塗られている。

 その殆どが“過去の歴史”であるのに対して、イスラエルによるパレスチナ人虐殺は終焉を告げてはいない。1948年の第一次中東戦争ナクバ)以降、半世紀以上を経た現在も進行中の歴史なのだ。ここにパレスチナの特殊性がある。終わっていないがゆえに検証することもできない。パレスチナ人の眼差しは、襲い掛かる今日明日のトラブルに向けられ、過去を振り返ることも許されない。


 岡真理はパレスチナの青年と対話をする。「なぜ、自爆テロを思いとどまっているのか?」と――

 占領下で若いパレスチナ人の男性であることは潜在的テロリストであることと同義であり、日々、恥辱にまみれることにほかならない。
 ジハード(※という名前の青年)にとって生きるとは、ただただ己れの無力を思い知らされるだけの毎日を送ることだ。未来への展望など何ひとつ思い描けない。自らの努力によってこの八方塞がりの情況が好転する望みはどこにもないのだから。外出禁止令がしかれていなくても、フェンスに囲まれた小さな街の囚われの人生であることに変わりはない。25歳の青年が生きるには残酷すぎる、まさに飼い殺しのような人生。ジハードの人生を想像して思った。彼がある日、自爆したとしても、私はちっとも不思議に思わないにちがいないと。祖国解放のために抵抗者となって殉じることは、生きているかぎり彼から奪われている社会的尊敬を手に入れる、唯一残された手立てなのだから。むしろ不思議なのは、このような救いのない情況のなかで、それでもなおジハードが、そしてほかにも無数にいるであろう彼のような青年たちが、自爆を思いとどまっていることのほうだった。
 あなたが置かれている情況を考えれば、自爆しても何の不思議もないと思う。いったい何があなたに自爆を思いとどまらせているの? そう率直に訊ねると彼は言った。
「ぼくはテロリズムには反対です。ぼく自身死にたくはないし、人も殺したくない。でも、分かりません。ぼくの友人にも、そう言いながらある日、突然、自爆攻撃をした者がいます。ぼくも同じようにしないとは言い切れません……。でも、ぼくは生きたい。パレスチナ人が正当な権利を回復するという希望がある限り……」。
「希望があるの?」
「希望は……あります」
「いったいどこに? どんな希望があるというの!?」
 残酷にも重ねて訊かずにはおれなかった。未来への展望などまったくない、どう考えても救いのないこのような情況のなかで、それでもジハードや、彼のような青年たちに自爆を思いとどまらせているものがあるとしたら、それは何なのか。いかなる力が彼らをこの世界に踏みとどまらせているのか。その力を明らかにすること、それは今、この時代の思想的急務であるように私には思われた。
「どこにどんなとは言えないけど……希望はあると信じています」。
 それは決して確信に満ちた口調ではなかった。むしろ、懐疑と苦渋のなかから絞りだされた言葉だった。希望を託したいと思う現実の何事も、理性による吟味に決して耐ええないことを彼自身よく分かっている。しかし、だからこそ、希望はあると信じないなら、あとに残されているのは他者の命を巻き添えに自らの肉体をダイナマイトで木っ端微塵に吹き飛ばすことだけだ。希望とは今日を生き延びる力のことであるとすれば、明日また新しい日が始まるから、新しい別の未来がありうるかもしれないと根拠なく信じることこそが、今日を生きのびる(ママ)ためには、どうしても必要なのではないか。


「善良なる魂」はいつでも輝いているものだと私は思い込んでいた。だが、そうではなかった。善と悪の波間で心が揺れ、戸惑い、迷う中で陶冶(とうや)される人格もあるのだ。パレスチナ青年の善良なる魂は石のようにざらついている。決して光ってはいないものの、確かな手触りが伝わってくる。


 自爆テロを迫られる情況を想像してみよう。自分が住んでいた家はブルドーザーで跡形もなく破壊される。妊婦は腹を切り裂かれ、胎児を引きずり出される。そんな現実があるにもかかわらず、国際機関は何もしようとしない。しかもこれらの暴虐が、後から勝手に引っ越して来た連中(=ユダヤ人)によってなされているのだ。「軒(のき)を貸して母屋(おもや)を取られる」どころの騒ぎじゃない。「軒を貸して母屋を破壊され、家族を殺された」というのがパレスチナ人の実感であろう。


 イスラエルユダヤ人がパレスチナ人に対して行っていることは、ナチス・ドイツユダヤ人に対して行った残虐ぶりより酷い。その根源にあるのは、ヨーロッパ社会の伝統的な差別主義であり、ユダヤ教による選民思想である。帝国主義は滅んでいない。十字軍も健在だ。


アラブ、祈りとしての文学 【新装版】