古本屋の覚え書き

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生きることは難しい/『生き方の研究』森本哲郎

 森本哲郎は文章がいい。春の小川のように優しく瑞々しい。


 先人の生きざまを通して現代人の生のあり方を問う。文芸評論より一歩踏み込んだ内容である。著者の人生に色濃く影響を与えた書物も取り上げられていて、「私の人生観」といった趣もある。

 洋の東西を問わず、時代の古今を問わず、人間はいつも自分の生き方について考え、苦しみ、悩んできた。なぜなら、自分の人生は自分でつくりあげてゆくものだからである。だが、もし、自分の人生が自分の思い通りになるならば、だれも苦しんだり悩んだりすることはなかったろう。それどころか、自分の生き方を考え、人生を設計することは、この上なく愉しい思案となったにちがいない。ところが――残念ながら世の中は、いつの時代にあっても、けっしてそんなに甘くはできていないのである。
 だからこそ生きるのはむずかしい。生き方を考えるのは苦しい。そこで、つい、生きることの意味を等閑(とうかん)に付し、習慣に従ってその苦しみから逃げようとする。


【『生き方の研究』森本哲郎(新潮選書、1987年)以下同】


 人生は思うようにいかない。ヒトがまだ半分裸で過ごしていた頃、生きるとは文字通り環境との戦いであったはずだ。猛獣に襲われる危険がつきまとい、天候に右往左往したことだろう。医療や衛生といった概念もなかったがゆえに、朝起きたら幼子や年寄りが死んでいたことも珍しくなかったに違いない。


 文明の発達は、まず幼児の死亡率を低下させた。続いて、死に至る病のいくつかを克服した。大半の人々が死ななくて済むようになったが、幸福とは縁遠い人生を歩んでいる。つまり、死刑執行の猶予期間が長くなっただけで、人生の中身はそれほど変わっていないように見受けられる。死という当たり前の現象が我々の日常から乖離すると、死の意味すらまともに考えなくなってしまった。今、死は病院にしか存在しない。現代精神の脆弱さは、死を忌避するところにあると思う。

 けれども、人間は物だけで生きるのではない。いや、物が豊富になればなるほど、どこか心の空虚さをそれとなく感じる人はふえているはずである。一抹の空しさ、それは数字にはあらわれない。だが、その空しさは、おそらく、生き方を問う必要すら感じさせなくなってしまった豊かな社会そのものに対する一種の裏切られたような気分なのではあるまいか。


 敵は猛獣から人間関係に姿を変えた。「隣の芝は青い」。確かに。資本主義経済は、国民全員をレースに駆り立てる。消費というルールの買い物競争だ。三種の神器にはまだ夢があった。そして何よりも生活を劇的に変えてくれた。今、人々が求めている物は、「他人よりも勝(まさ)っている」という修羅の心に過ぎない。レースはヒエラルキーのより上位を目指す走り高跳びと化す。


 生きることが難しくなったのは、身近にモデルとなる大人が存在しないためだ。生きざまを感じさせるほどの人物はそうそういない。だから子供達は、ブラウン管の向こう側で踊っている連中に飛びつく。だが、奴等には生活感がない。どうせ、テレビカメラの前で白い歯を見せているだけだ。


 本書の不満を一つだけ上げれば、森本は生き方を風流に帰着させようとしている点だ。そんなものは、権力者から離れた位置で余生を過ごす封建時代の生きざまに過ぎない。芸術は確かに人の心を潤す。だがその芸術が、権力者というパトロンを必要としたこともまた歴史の事実であろう。花鳥風月を愛(め)でているだけで、社会を変革することはできない。


 結局、人生は何と戦ったかで決まるのだ。勝ったか負けたかはどうでもいい。いかなるものに爪を立て、パンチを繰り出したか。そこに人生の意味がある。