超能力に対する態度/『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』

 年代別に編んだ小林秀雄の全作品集。こうした企画物がソフトカバーになっているのも不景気の表れか。茂木健一郎が心酔し、池田晶子が惚れ抜いた講演(「信ずることと考えること」昭和49年8月5日、鹿児島県霧島)を文章にしたもの(※テープ起こしではない)が収められている。


 私は小林秀雄の文章はあまり好きじゃない。ハッとさせられる表現は多いのだが、それは文体によるものではなくして、語彙の配列にあり、飽くまでも思考の軽やかさを示したものだ。小林の主張には逆らい難い切迫感があり、それが単なる思考ではなく、豊かな情緒に支えられていることがわかる。


 本書には書評、対談、講演などが録されているが、断然対談が面白い。気心の知れた今日出海とのやり取りでは品のよい江戸っ子ぶりが発揮され、昭和初期のモノクロ映像が立ち現れてくるような雰囲気がある。


 そして白眉は何といっても「信ずることと知ること」に尽きる。私はこの部分だけ三度ばかり読んだ。

 今度のユリ・ゲラーの実験にしても、これを扱う新聞や雑誌を見ていますと、事実を事実として受けとる素直な心が、何と少いか、そちらの方が、むしろ私を驚かす。テレビでああいう事を見せられると、これに対し嘲笑的態度をとるか、スポーツでも見て面白がるのと同じ態度をとるか、どちらかだ。念力というようなものに対して、どういう態度をとるのがいいかという問題を考える人は、恐らく極めて少いのではないかと思う。今日の知識人達にとって、己れの頭脳によって、と言うのは、現代の通念に従ってだが、理解出来ない声は、みんな調子が外れているのです。その点で、彼等は根柢(こんてい)的な反省を欠いている、と言っていいでしょう。(「信ずることと知ること」)


【『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』(新潮社、2004年)】


 小林は常々言論人として「インテリの責任」を問う。そして、思想的格闘のない底の浅い考えを嫌悪する。


 超能力という人知を超えた摩訶不思議な現象を目の当たりにすると、「わからないから」嘲笑する。「理解できないから」面白がる。講演の中でも、「人間にはそういう力がある」と言い切った後で、「そんなものよりも驚くべきことはたくさんある」と斬りつけ、返す刀で現代科学をもバッサリと断じている。


 翻ってネット上の言論を見渡すと、驚くほど小林の指摘が当てはまる。言葉をこねくり回して、ああだこうだと書き連ねているが、大半は政治的立場という党派性からもたらされた感情論であることが多い。「ネット右翼」などという言葉がそれを象徴している。


 悪名高い匿名掲示板にしてもそうだろう。政党や企業から宗教団体に至るまで悪口・陰口のオンパレードとなっているが、利害が敵対する勢力の連中が書いていることは一目瞭然だ。党派性に支配されている限り、きちんとしたコミュニケーションは成立しない。


 その意味からも「彼等は根柢(こんてい)的な反省を欠いている」という言葉は重みがある。社会に対する責任を果たさないのは、“自分の人生”を確かに生きていない証拠だ。自分という座標軸が定まっていないから流される。流されるからフワフワした責任のない言動となる。


 本書には収められていないが、講演では「なぜ徒党を組むのか」というテーマにも触れている――

 だから信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるんです。そうすると人間は集団的になるんです。(中略)
 イデオロギーは匿名ですよ、常に。責任を取りませんよ。そこに恐ろしい力があるじゃないか。それが大衆・集団の力です。責任を持たない力ってものは、まあ恐ろしいですね。(中略)
 集団ってのは責任取りませんからね。どこへでも押し掛けますよ。自分が正しい、と言って。(中略)
 左翼だとか右翼だとか、みんなあれイデオロギーですよ。あんなものに「私(わたくし)」なんかありゃしませんよ。信念なんてありゃしませんよ。


【「なぜ徒党を組むのか」】


 小林の名調子に激昂の色が加わる件(くだり)である。主義主張の奴隷になっている人物に「私」は存在しない。彼や彼女が体現しているのは命令系統だけだ。それを小林は「イデオロギー」と批判しているのだ。


 三木清の「個人であろうとすること、それが最深の、また最高の名誉心である」(『人生論ノート新潮文庫、1954年)という言葉を思う。ただひたすら思う。


小林秀雄全作品〈26〉信ずることと知ること 信ずることと考えること―講義・質疑応答 (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 2巻)
(※左が書籍、右が講演CD)