ヒューマニズムは科学ではない。人間はかならずや過去に例のない輝ける世界を実現すると断じるキリスト教以降の信仰である。キリスト教以前のヨーロッパでは、未来は過去とさして変わりないと考えるのがふつうだった。知識が進んで新しいものがつくられるにしても、価値体系が大きく変わることはない。歴史は果てしない循環であって、そこに一貫した意味はない、と人は理解していたのである。
これを異教の考えとして、キリスト教は歴史を罪と贖いの寓話と解釈した。キリスト教の救済の理念を人類解放の祈願に置き換えたのがヒューマニズムであり、進歩の概念は神慮を待望するキリスト教信仰の世俗版である。それゆえ、キリスト教以前の世界は進歩に関心がなかった。
進歩信仰にはもうひとつ別の根拠がある。科学においては、知識は増大し、蓄積する。だが、人間の存在は全体として蓄積に向かわない。ある世代が獲得したものも、つぎの世代には失われるかもしれない。また、科学の場合、知識は純粋善だが、倫理学や政治の世界では功罪相半ばする。科学は人間の能力を増進すると同時に、人間が持って生まれた欠陥を拡大する。人間の寿命を延ばし、生活水準を向上させるのも科学なら、破壊をほしいままにさせるのもまた科学である。現在、人類はかつてない規模で傷つけ合い、殺し合い、地球を破壊している。