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ジョン・グレイのクリシュナムルティ批判/『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ

 ジョン・グレイによるクリシュナムルティ批判の全文を挙げておこう──

クリシュナムルティの重荷


 19世紀の末から20世紀のはじめにかけて世界各地で流行したニューエイジのカルト集団、神智学協会はジドゥ・クリシュナムルティをキリストや仏陀に次ぐ現代の救世主に祭り上げた。若年の折、クリシュナムルティは公然とこの役割を拒否し、もっぱら、人はそれぞれに自身の救済を模索しなくてはならないと説いた。重荷を一身に引き受けて人類を救うほどの救世主は待望できないという趣旨である。
 クリシュナムルティの教えは、自身が斥けた古来の神秘主義と共通するところが少なくない。神秘哲学は人類を苦悩から解放する悟りを約束したが、その希望はありがた迷惑な重荷だった。人間はほかの動物と共有している生き方を捨てきれず、また、捨てようと努めるほど賢くもない。不安や苦悩は、静穏や歓喜と同じ人間本来の心情である。自身のうちにある獣性を脱却しえたと確信すると、そこで人間は偏執、自己欺瞞、絶えざる動揺といった固有の特質をさらけ出す。
 一般に知られているところから推して、クリシュナムルティの生涯は並はずれたエゴイズムの貫徹と言うほかはない。ご多分に漏れず、陰では淫乱この上なかったが、一介の説教師とはちがう精神的指導者という地位を利用して、寄ってくる崇拝者たちを慰みものにした。人には無私無欲を説きながら、自分は神秘的な陶酔をごくありきたりの癒やしに結びつける生き方を目論み、その矛盾、不一致には知らぬ顔だった。
 これはいささかも異にするには当たらない。獣性を排斥する者は人間をやめるわけではなく、ただ自分を人間の戯画に仕立てるだけのことである。そこはよくしたもので、大衆は聖人君子を崇める半面、同じ程度に忌み嫌う。(138-139ページ)


【『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ/池央耿〈いけ・ひろあき〉訳(みすず書房、2009年)以下同】


 意図的な攻撃性が窺える文章で、この人物の性根が垣間見える。まず、この記述には事実が一つも示されていないことに気づく。では、一つ一つ検証してみよう。


 神智学協会のことを「ニューエイジのカルト集団」とレッテルを貼っているが、このような言葉を使うのは保守的な国家主義者と相場は決まっている。異質さや反社会性、あるいは非科学性を嘲笑したつもりなのだろう。馬鹿丸出しである。ジョン・グレイは科学による進歩主義を批判しながら、科学の奴隷であることをさらけ出している。大体、2000年前にはイエスだって異端視されたわけだろ? 仏法者の私からすれば、天地創造を説くキリスト教の方が立派なカルトだと思えて仕方がない。更に、ジョン・グレイが好む道教というのは、房中術を取り入れて単なるセックス教団みたいになっているのだ。


「自身が斥けた古来の神秘主義と共通するところが少なくない」、「並はずれたエゴイズムの貫徹と言うほかはない」、「ご多分に漏れず、陰では淫乱この上なかった」──根拠を一つも示さずして、悪口を並べ立てているだけだ。


 ジョン・グレイが下ネタを引っ張り出したのは、彼自身のどこかに性的なコンプレックスがあることを示唆している。これだけのデタラメをスラスラと書けるのだから、ジョン・グレイはイギリスの大衆紙ザ・サン」でアルバイトでもすればいいのに。きっと下衆(げす)なエロ記事を好きなだけ書けることだろう。


 しかもだよ、この後でこんなことを書いているのだ──

 動物は生きる目的を必要としない。ところが、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられない。人生の目的は、ただ見ることだけと考えたらいいではないか。


 完全にクリシュナムルティのパクリだ。結局この人物は、自分が好む道家の思想やガイア理論の肩を持つために、不要な批判を加えることで馬脚を露(あら)わしている。


 知識が武器と化せば、おのずから暴力性をはらむ。隠された悪意は必ず腐臭を放っている。


 ま、このおっさんは、所詮評論家のレベルであり、寄生虫みたいな存在だ。で、その巧妙な手口を知れば知るほど、MI5の手先に見えてくる。ま、学術芸者といったところだろう。


 欧米で関心を集めているのは、キリスト教批判が上手いということだけであって、思想的な豊かさや斬新さは一つもない。わかりやすく言えば、筒井康隆みたいなレベルだ。


 下劣な批判が書かれるところを見ると、やはりクリシュナムルティの教えは権力者にとって危険なものであることが理解できる。


クリシュナムルティのセックス・スキャンダルについて