古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

哲学の限界/『現代思想の冒険』竹田青嗣

 昨年の10月から怒涛の如くクリシュナムルティ本を読んできた。そこで感受性の偏りを防ぎ、バランスをとる目的で本書を読んだ。


 結論から述べよう。思想・哲学の無力さがよくわかった。大体、近代思想の多くが西欧から誕生した時点で胡散臭い。キリスト教+経済力という式が見え見えだ。


 本気で哲学と取り組もうとするなら、まず言葉の定義から見直す必要があろう。例えば「世界」という言葉だ。彼等の「世界」と我々日本人の「世界」は明らかに違う。ヨーロッパ人が置かれた世界は「神と向き合う自分」の世界だ。一方、日本人の世界とは「世間」に過ぎない。


 西洋哲学がとにかくわかりにくいのは、我々がキリスト教を信仰していないためだろう。教会、告白、懺悔、三位一体、パンと葡萄酒、偶像崇拝――言葉は知っていても、皮膚感覚を欠いてしまっているのだ。


 その意味で、西洋の思想・哲学とはキリスト教の亜流であると私は思う。日本人にとっての神はアニミズム的色彩が強く、曖昧な豊かさはあっても、思想を吟味する厳しさに欠ける。


 竹田は「世界のイメージ」(世界像)についてこう書いている――

 たとえば学校で勉強の出来る人間は、学者や官吏その他になる道を選ぶし、スポーツの得意な人は、野球選手やオリンピックをめざすだろう。ところが、こういった自分のライフ・スタイルの思い描きそのものが、社会全体のイメージなしには決して成り立たない。それだけではない。ひとは若い頃からさまざまな〈世界〉を思い描いてそれに【憧れる】が、この〈世界〉への感受性のかたちが、友人や仲間との世界を形づくり、その共同性の中での自分の役割を確定してゆくうえでの唯一の土台になるのだ。
 つまりひとが自分のうちになんらかの〈世界〉を思い描くことは、すでに社会の中に存在する〈世界〉の共同性の中に(たとえば文学の世界、芸術の世界、政治の世界、趣味、嗜好、等々)彼を導き入れ、その中で彼が〈自我〉のかたちを作りあげて生きてゆくための、基本の通路となるのである。


【『現代思想の冒険』竹田青嗣〈たけだ・せいじ〉(毎日新聞社、1987年/ちくま学芸文庫、1992年)】


 わかったような、わからないような文章だ。大事なことを言っているようにも見えるし、何も言っていないようにも思える。かような姿勢を私は「悪しきリベラリズム」と呼ぶ。最も顕著なのが漢字の使い方である。妙なところで平仮名を使っているため、かえってわかりにくくなってしまっている。


 このテキストが致命的なのは、世界と世間の違いが示されていない上、「基本の通路」が環境に由来するものなのか、主体性を発揮し得るものなのかが不明なことだ。更に、その通路が変更可能なのかもわからない。必然性と偶然性の影響だって見逃すわけにはゆくまい。


 また、「自我」という言葉も曲者(くせもの)だ。そもそも自我とは発揮されるべきものなのか、あるいは形成されるものなのか、それすらわからない。「かたち」とは書かれているが、全体的なのか、それとも部分的なのか?


 まあ、こんなふうにだね、自分の頭で批判的にものを考えるのが哲学なのだよ(笑)。


 竹田のテキストは期せずして、クリシュナムルティが説く「条件づけ」を見事に描き出している。本書を一読した上で、以下のテキストを参照すればたちどころに理解できよう――


・-断片化の要因/『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ
理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ
監獄としての世界/『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一
深遠なる問い掛け/『英知の教育』J・クリシュナムルティ
内面的な腐敗と堕落/『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ


 最大の問題は竹田が言う「基本の通路」が、教育という名目で既成概念を押しつけている事実なのだ。「基本の通路」を「自由な通路」「本来の通路」としない限り、人類の歴史は過去の延長線を繰り返す羽目になる。


 哲学は思考の次元で行われる。思考を織り成すのは言葉である。そして言葉はシンボルであって「当のもの」(=そのもの)ではない。つまり、「初めに言葉ありき」(ヨハネ福音書)という聖書の教えが拘束着のように作用しているわけだ。


「創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった」――そんなわけねーだろーよ(笑)。で、神の言葉である「光あれ」をビッグバンと結びつける考え方もありそうだが、これは明らかな牽強付会(けんきょうふかい)だ。大体、初めに創造したのは「天地」なんだから、神様が現代宇宙論を知らなかった事実が露呈している。しかもこの言葉自体が矛盾している。だって、本当は「言葉」の前に「神」が存在しているわけだから。


創世記の矛盾
神の支配とは何か?/『イエス』R・ブルトマン


 砂漠で生まれたキリスト教は、自然を征服する対象として見つめるために、自然との交感が欠如している。蛇が悪者になっているのも同じ理由からであろう。西洋哲学にも同じことが言えると思う。


森林の思考・砂漠の思考〈仏教とキリスト教〉


 言葉が構築するのは論理的世界である。世界という言葉は、世界そのものではない。ここに哲学の限界がある。大体、哲学が人を救ったという話を聞いたことがない。哲学が行うべき本当の仕事は「キリスト教の解体」である。