古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

断片化の要因/『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ

 傑作という言葉は相応(ふさわ)しくない。人為的な作品といった次元を軽々と凌駕(りょうが)している。人類の知性が辿り着いた最高峰であり、経典に位置すべき内容だ。ただし、いきなりこの本を読んでも理解し難いことだろう。物事には順序がある。せめて以下の書物に目を通してから取り組むべきだ。


クリシュナムルティへの手引


 デヴィッド・ボームアインシュタインとも共同研究をした理論物理学者で、デヴィッド・シャインバーグはアメリカの精神分析医である。つまり、科学という目に見える世界と、人間心理という目に見えぬ世界のスペシャリストが対談相手となっている。


 マイケル・クローネン著『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』によれば、ボームとの対話は常に穏やかで静かな雰囲気で行われていたようだ。精神性の深い対話は討論の形を取らないものだ。


 鼎談(ていだん)の様子を知ってもらうために、やや長めの引用をしておこう。まず、心理的葛藤が人々を断片化し、世界を分断していることが語られる。三つの英知は静謐(せいひつ)の中から世界の姿を見つめる(※K=クリシュナムルティ、B=ボーム、S=シャインバーグ)――

B――何もかもが急速に変化しているので、自分がどこにいるのかわからないほどです。それなのになぜ、問いたださずに生き続けていこうとするのでしょう?


K――なぜ問いを発しないのでしょう? 恐怖のせいです。


B――ええ、しかしその恐怖は断片化から起こるのです。


K――むろんそうです。では、それがこの断片化のはじまりなのでしょうか。断片化は、人が安定、安全を追い求めているときに起こるのでしょうか。


S――しかしなぜ……?


K――生物的ならびに心理的に。まず何よりも心理的に、しかるのちに生物的に、あるいは物質的に。


B――しかし、物質的安定を求める傾向は有機体に組みこまれているのではないでしょうか。


K――ええ、そのとおりです。人は衣食住を確保しなければなりません。それは絶対に必要です。


S――そうです。


K――そこでそれが脅かされるとき――もし私がソ連で暮らしながら、共産主義体制を全面的に批判したら、私は人非人扱いされるでしょう。


S――しかし、ここは少々ゆっくりと進めていただきたいのですが、生物的に安定を求めていくことで、人は何らかの断片化に陥らざるをえない、とあなたは示唆していらっしゃる。


K――いや、そうではなく、生物的レベルで断片化、不安定が起こるのは、人が心理的レベルで安定を欲するときです。


S――それならわかります。


K――私の言うことがおわかりですか。ちょっと待ってください。それはつまりこういうことです。もし人が心理的に何らかの集団に属さなければ、そのときはその集団からはみ出してしまいます。


S――すると不安定になる。


K――不安定です。そしてその集団が私に安定、物質的安定を与えてくれるので、私は、それが与えてくれるものを何もかも受け容れてしまうのです。


S――ええ。


K――しかし人は、心理的に、社会、コミュニケーションの構造に異議を申し立てるやいなや、途方に暮れてしまうでしょう。これはあきらかな事実です。


S――たしかに。


B――そうですね。


S――ではあなたは、われわれの生活環境にある不安定の原因は、条件づけられることにあり、それに対応して――それへの答えとして――条件づけられた断片化だ、とおっしゃりたいのですか。


K――部分的には。


S――そして断片化の運動の中身は条件づけだということですか。


K――博士、こういうことなのです。もし歴史的、地理的、国家的に何の断片化もなければ、われわれはこのうえなく安全に暮らせることでしょう。われわれの全員が保護され、全員が衣食住にありつけることでしょう。戦争もなく、われわれはひとつであることでしょう。彼は私の兄弟であり、私は彼の兄弟である。彼と私はひとつであることでしょう。しかしこの断片化が、その妨げになっているのです。


【『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ/大野純一、聖真一郎〈ひじり・しんいちろう〉訳(平河出版社、1986年)以下同】


 私を巡って家族という円がある。友人という円がある。仕事という円がある。地域という円がある。私を取り巻く円は複層構造となっているが、社会・伝統・時代・国家といった「大きな円」の中に取り込まれている。


 翻って私の立場を考えてみよう。私は男である。古本屋であり、コンサルタントであり、東京都民であり、日本国民でもある。そして私は夫であり、子供であり、長男であり、伯父さんであり、隣人でもある。性格は直情径行で、スポーツはほぼ万能、かに座AB型、愛煙家であり読書家でもある。直感的に人を見抜くことが得意で、言いたいことをはっきりと述べるタイプだ。声も大きい。我が辞書に遠慮という文字はない。


 おわかりになっただろうか? 「私は――である」と規定することは「私は――でない」という反対の命題をもはらんでいる。そこに分裂が生じるのだ。「私は私である」と言った瞬間に、「私」と「あなた」が切り離されるのだ。つまり、世界は人の数だけ分裂しているのだ。


 心理的葛藤は人と人との間に存在する。安定を求めるから多くの人々と一緒に歩もうとする。集団、組織、コミュニティ、国家は一定の安定を与えてくれる。ここから脱落しそうになると人は恐怖を覚える。多分、生存リスクが高くなることを本能的に察知しているのだろう。


 そうであればこそ、生まれた時から社会に順応するように育てられる。反社会性はコミュニティを危険にさらす可能性があるから徹底的に排除される。このようにして、人々は小学校を卒業する頃までには完全に「漂白」された状態となっている。小さなシミが残っていれば、「変わった奴だ」とレッテルを貼られる。そして学校という戦場では精神性は完全に無視され、ひたすら記憶力を競う様相を呈している。物覚えの悪い者はダメだ。なぜなら、大人の言いなりにならないからだ。


 こうした条件づけは、私立の小中学校や偏差値の高い高校を経て一流大学へと進む中で、最大限に純粋培養される傾向がある。掟には従え。ルールを守れない者はドロップアウトせざるを得ない。ヒエラルキーとは断片化された階層のことである。学歴、収入、性別、年齢、地域格差など、もはや幸不幸は周囲の人との差でしか感じられなくなっている。実存性までもが相対的に判断されている。そして多くの人々はドングリの背比べに余念がない。

S――たしかに。さらにあなたは、もっとそれ以上のこと、つまりそうなればわれわれは、お互いに助け合うことだろう、ということを示唆していらっしゃるように思うのですが。


K――助け合い――むろんそうです。


B――われわれは堂々廻(めぐ)りをしているようですね。なぜなら……


K――そのとおりです。そこで私はもとに戻ってみたいのです。それはこういうことです。もし国籍や、イデオロギー集団などがなければ、われわれは必要なものをすべて確保することでしょうが、私がヒンドゥー教徒であり、あなたがアラブ人であり、彼がロシア人であるがゆえに、それが妨げられているのです。違いますか。われわれはそこで、なぜこのような断片化が起こるのだろう、と問うているわけです。何がその根源なのでしょう? 知識でしょうか。


S――知識だとおっしゃりたいのですね。


K――知識でしょうか。私はたしかにそうだと思うのですが、しかしそれを質問として提出しているのです。


S――たしかにそうだと思われますが。


K――いやいや、踏みこんでごらんなさい。見出してみましょう。


S――あなたは、知識によって何を意味しておられるのですか、何を言おうとしていらっしゃるのですか。


K――「知る」という言葉。私はあなたを知っているでしょうか。あるいは、知っていたでしょうか。私は、自分はあなたを知っている、とは実際上けっして言えません。「私はあなたを知っている」「私はあなたを知っていた」などと言うのは、はなはだいまわしいことです。私がそう言っているあいだにも、あなたは変化している――あなたのなかでは、大きな運動が進行しているのです。私はあなたを知っている、と言うことは、あなたのなかで進行中の運動を私がよく知っていること、それを熟知していることを意味します。ですから、私はあなたを知っているなどと言うのは、あなたに対する私の側の厚かましさというものです。


S――たしかに。


K――ですから知ること、知識は、過去のものです。そう思いませんか。


B――そう、われわれが知っていることは過去だ、と私も思います。


K――知識は過去なのです。


B――なのにわれわれがそれを現在だとみなすところに危険があるのです。危険なのは、われわれが知識を現在だと思いこむことです。


K――まさにそのとおりです。


B――言い換えれば、もしわれわれが過去は過去だと言えば、それは断片化する必要がないということではないでしょうか。


K――それはどういうことですか。


B――もしわれわれがそう言えば、つまり過去は過去、過ぎ去ったことだと認識、承認し、それゆえ自分たちが知っていることは過去なのだとわきまえていれば、そのときには断片化をもちこむことはないはずです。


K――そう、もちこみません。そのとおりです。


B――しかし、もしわれわれが、自分が知っていることはいま現在なのだと言えば、そのときには断片化をもちこんでいるのです。


K――たしかに。


B――なぜならわれわれは、この部分的知識を全体の上に押しつけているからです。


K――博士、あなたは、知識が断片化の要因のひとつだと思われるのですね? それは、大きな苦い丸薬のようなものです!


B――そしてそれ以外にもじつにさまざまな要因があるのです。


K――そうかもしれません。しかし、それが唯一の要因かもしれないのです!


B――それをこんなふうに見たらどうでしょう――人々は、知識によって断片化を克服したいと願っているのだ、と。


K――もちろん。


B――すべてを総合するような知識体系をつくり上げることを願っているのです。


K――それが断片化の主因のひとつ、あるいはたぶん要因【そのもの】なのではないでしょうか。経験は私に、おまえはヒンドゥー教徒なのだ、と言いきかせます。経験は私に、自分は神とは何か心得ている、と告げるのです。


「分かる」ことは「分ける」ことである。

 しかし、人体の臓器や細胞をいくら調べたところで「人間を知る」ことはできない。全体的・統合的なアプローチが必要となる。


「知識は過去である」――蓄積された知識や理論は死んだものであり、脈々と流れ、刻々と去りゆく「現在」の意味を見失わせる。過去のイメージに束縛されている限り、生のリアリティを感得することはできない。このため我々の人生は常に「昨日の延長としての今日」となっているのだ。


 神話、昔話、先祖伝来の言い伝えに込められているのは、何らかの条件づけに他ならない。約束を守らなければ、玉手箱を開けてジジイになり、反物(たんもの)を織っていた鶴は去ってゆくのだ。人は物語に生きる動物である。物語がめでたしめでたしと完結するためには社会的成功が不可欠となる。成功は力によって獲得される。力は何らかの抑圧を生むため、その全てが暴力性をはらんでいる。一寸法師、桃太郎、金太郎が示す暴力性に注目せよ。正義の御旗(みはた)が用意された途端に暴力は正当化される。


 思考は知識であり、知識は過去である。目指すべきは思考の向こう側に広がる空(くう)なる世界である。心の奥深くに広大な宇宙が存在する。それを自覚した時、縁起の世界が開かれて万物と万物とがつながり、森羅万象を結び合わせる糸が見えるのだろう。


宗教とは何か?