古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

投資家とは失望した投機家のことだ/『投機学入門 不滅の相場常勝哲学』山崎和邦

「投資は投機に非ず」──こんな言葉を聞いたり見たりすることは多い。株式投資であれば「長期間にわたってその企業を支え、育てるのが投資である」なんて話だ。


 馬鹿も休み休みに言いやがれって話だわな。そもそも企業を支える義務が一般投資家にあるわけがない。株式を発行する意味は資金調達に他ならない。「銀行の金利は高いんで、あんた貸して(=出資して)くれない?」というだけのことだ。


 例えば私があなたに「100万円貸してくれよ。1年後には50万円にして返すからさ」と言ったら、果たして貸そうとするだろうか? 貸すわけがない。


 本質的には投資も投機も同じ行為であり、リスクをとってリターンを得ようとする営みだ。生命保険を考えるとわかりやすい。生命保険は、65歳までに「自分が病気になる」あるいは「自分が死ぬ」ことに賭けているのだ。


 また、自動車を運転することだってリスクは伴う。交通事故というリスクをとって、短時間で到着するというリターンを得ているのだ。車の場合は高リスクのため、保険加入が義務づけられている。保険料を考えると二重のリスクをとっているといってよい。


 こうした経済概念は結構大切で、実際に投資をしてみると損得は別にしても、明らかにリスクマネジメント思考が身につく。

「投機」という言葉はもともと禅語からきたもので、文字どおり「機」に投ずるということだ。機とは勝機、商機、妙機などというときの、あるチャンスのことで、投ずるとは情熱的・意欲的な能動的行動である。これに対して「投資」とはすなわち資金を投入するということであり、当然、投機と同じくチャンスを見るわけだから、両者に本質的な違いはない。


【『投機学入門 不滅の相場常勝哲学』山崎和邦(『投機学入門 市場経済の「偶然」と「必然」を計算する』ダイヤモンド社、2000年/講談社+α文庫、2007年)以下同】


 山崎はやや強引な表現をしているが、「機」とは機会であり時機のことである。仏教用語の場合は「機根」(きこん)のことで、教えを受け容れる素養を意味する。

 もっとも、こういうケースがよくある。投機のつもりで資金投入したが、チャンスを誤ったので、投じたお金はそのままにしておいて次のチャンスを待ち伏せするため結果的に長期にわたる、というような場合である。この場合、投機家変じて投資家となったわけだ。だから私は「投資家とは失望した投機家のことだ」と言っている。


 これは名言だ。損をしこたま抱えて、切るに切れなくなってしまった一般投資家を見事に嘲(あざけ)り笑っている。


 本書は投資手法については何ひとつ書かれていないが、マーケットの概念をわかりやすく教えている。

 ケインズというイギリス人については、ほとんどの人が大経済学者としてだけのイメージを持っているであろうが、彼は母校ケンブリッジ大学の資金運用を担当していて、株式投機でそのお金を11倍に増やした。しかも世界恐慌の長期低迷相場のなかにおいてだ。そう、彼は株式投機で大もうけしようとして、あの壮大な経済学の体系を構築したのである。またおそらく経済学者としてしか知られていないリカードも株式市場で大成功した。


 これは日本の学者やアナリストを挑発した件(くだり)である。実践の伴わない理論にはキャラメルほどの価値もない。

 投機で儲ける人は、ひと口に言って本当の意味での教養人である。ここで言う教養とは日常生活や人生のあり方に対する真摯な態度であり、ある目的のために必要ならば禁欲もし、怠惰や放漫を抑え、自分を律して行動を効率化していく生活態度だ。


 教養人とは、「感情をコントロールできる人物」という意味合いであろう。儲けては胸を反(そ)らせ、損をするたびに肩を落としているような人は、マーケットから弾き飛ばされてしまう。大体、勝ち続けている人は5%と言われる世界なのだ。


 もちろん、「投資をしない」という選択肢もある。ただ、この場合は金融機関に預金として貯えることで、「投資する機会」を銀行に譲っていることになる。つまり車を自分で運転するか、タクシーやバスのように他人に運転してもらうかという違いでしかない。


 いずれにせよ、マネーは動いている。じっとしていることがない。高いところから低いところへ、そしてある時は逆流し、ある時は鉄砲水のように荒れ狂う。こうしたマネーの流れを実感するだけでも、政治や経済に対する視点がガラリと変わる。


 まったくの素人であれば、ETF(上場投資信託)から勉強するのがいいだろう。固い手法としては日経平均などのインデックスを定期的に買い続けるのが好ましい。世界の資本主義経済が破綻しない限り、一定期間を経れば必ず利益が出る。ま、「資本主義経済に賭ける」ような手法だ。