古本屋の覚え書き

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瞑想は偉大な芸術/『瞑想』J・クリシュナムルティ

 瞑想に関するクリシュナムルティ箴言集である。10冊ほどの著作から抜粋したもの。中川吉晴の訳はわかりやすさに重きを置いているため、文章の香りが損なわれている。だが、新訳は必ず新しい発見を与えてくれる。


 クリシュナムルティの教えを実践するには瞑想、観察が不可欠となる。「あるがままのものを、あるがままに見つめよ」というのが唯一の実践法だ。しかしながら、読めば読むほど自分が近づいているのか、遠ざかっているのかがわからなくなる。


 そこに「瞑想」という形式があるわけではない。クリシュナムルティは座禅を組めと言っているわけではないのだ。それどころか禅やヨガを明快に否定している。ということは、「修行としての瞑想」を否定していることになろう。


 クリシュナムルティによれば思考を終焉(しゅうえん)させ、時間を止(や)ませることが瞑想であるという。我々の生活は「知覚+反応」に過ぎない。つまり、外界からの情報に対する反射行動といえる。情報とは意味である。そして情報に意味を付与しているのは思考なのだ。


 犬が食べものを見つけた時、たぶん犬は何も考えていない。あいつらは時折、小首をかしげるようなポーズをすることはあるが、決して考えてやしない。だから、鼻をクンクンさせて匂いを確認する。彼等は「考えて」いるのではなく、「感じて」食べるのだろう。


 人間は考える葦(あし)である我思う、ゆえに我あり。西洋哲学はおしなべて、神と向き合う「私」に取りつかれていた。


 だが、よく考えてみよう。「私の──」と言う時、それは自分の欲望を象徴している。私の車、私の家、私の家族、私の信念、私の思い出、私の好物、私の趣味、私の理想、私の……。「私」とは私の欲望である。欲望は快・不快をもって満たされたり満たされなかったりする。そして、自分の欲望と他人の欲望とがぶつかり合うのが、我々の生きる世界ではないだろうか?


「私」は私の過去でもある。時間と思考に終焉を告げるのが瞑想であるならば、それは「私」の解体である──

 瞑想は
 生のなかで もっとも偉大な芸術のひとつです
 おそらく最高に偉大なものでしょう
 それは ほかの誰かから学べるものではありません
 それが 瞑想の美しさです
 瞑想には どんな技法もありません
 それゆえに 瞑想には権威者などいないのです
 あなたが自分自身について知るとき
 つまり あなた自身を見つめ
 どのように歩き どのように食べ
 なにを話しているかを見まもり
 おしゃべりや 憎しみや 嫉妬を見つめ
 あなた自身のなかで
 これらすべてのことに
 思考をさしはさむことなく気づいているとき
 それはすでに瞑想になっています


 だから
 バスにのっていても
 木漏れ日のさす森のなかを歩いていても
 鳥のさえずりを聴いていても
 妻や子どもの顔をながめていても
 瞑想はおこります


 いったい どうして
 瞑想が きわめて大切なものになるのでしょうか
 まったく不思議なことです
 瞑想には
 終わりがありませんし
 始まりもありません
 それは ひとつぶの雨のようなものです
 ひとつぶの雨のなかには
 小川があります
 大河があります
 海があります
 滝があります……
 それは
 大地をやしない
 ひとをやしないます
 それがなければ
 大地は 砂漠になってしまうでしょう
 瞑想がなければ
 ハートは 砂漠になり
 不毛の地になってしまいます


【『瞑想』J・クリシュナムルティ/中川吉晴訳(UNIO、1995年)】


 ブッダは欲望に対して肯定も否定もしなかった。ただ、「離れよ」と説いた。欲望を離れて見つめる人は少欲知足となった。すると今度は、少欲知足がスタイルとして確立されてしまった。本末転倒。


 偉大なる宗教者達は「教義を説いた」わけではなかった。それを後世の弟子が教義に格上げし、教条として人々を縛る道具にしてしまった。教義はラインと化して、そこからはみ出すとけたたましい音のホイッスルが鳴り響く。人々は恐怖感に支配されてコートの中でおとなしく生きてゆく。犬に誘導される羊の群れのように。


 実はクリシュナムルティが言う瞑想が、さっぱりわからない。わからなくてもいいや、とも思っている。少なくとも私にとって、クリシュナムルティの言葉に接することは瞑想を意味していない。心がざわめいて仕方がないからだ。


 人と話したり、本を読んだりしていると、時々距離感が消失することがある。特に辛い思いを抱え、苦しみに喘ぐ人を目の当たりにすると、私は他のことが全く見えなくなる。これが私にとっての瞑想だ。


 驚くべきことだが、死を自覚すると人間の感覚は現実を全く異なる世界に変える──


知覚の無限
光り輝く世界/『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清


 これこそ真の瞑想なのだろう。生からも離れて達観する時、そこに真実の世界が立ち現れるのだ。我々は様々な条件づけによって、目を覆われ耳を塞がれてしまっている。


 例えば、親しい者同士が集まった時にでも、クリシュナムルティのように数分間を黙って過ごすのもいいだろう。クスクス笑いながらでも構わない。大事なことは言葉を超えたコミュニケーションが確かに存在するという事実なのだ。



瞑想
八正道と止観/『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良
目的は手段の中にある/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一