瞑想は冥想とも書く。「瞑」は目をつぶることで、「冥」は「くらい」と読む。冥(くら)き途(みち)と書いて冥途(めいど)と申すなり。
ブッダは瞑想の果てに仏となった。仏とは覚者の謂いで、ブッダという呼称には「目覚めた人」という意味がある。仏教では瞑想のことを禅定(ぜんじょう)とも三昧(さんまい)とも止観(しかん)ともいう。瞑想はインド古来の文化であった──
インドでは極めて古くから瞑想が行われていたようであり、紀元前25世紀ごろに栄えたインダス文明の遺跡であるモヘンジョ=ダロからは、座法を組み瞑想を行う人物の印章が発見されている。
クリシュナムルティが説く瞑想は、木陰などの静かな場所で思考のありのままを観察することである。「瞑想は時と場所を選ばない」とも言っているが、具体的なアドバイスはこの通りである。目を瞑(つぶ)るとは、外界ではなく内なる世界を見つめることである。そして、冥(くら)く深い地点をまさぐる行為だ。
我々の頭は言葉でいっぱいになっている。思考はまるで常駐ソフトのようだ。休みなく働く頭脳は次第に機械化してゆく。1+1は2だ。思考が理論を構築すると、今度は現実を理論に引きずり込もうとする。取り扱い説明書、マニュアル、公式、セオリー、常識、法律、道徳、文化、教義が人間をプレスする。規格化された人々はロボットと化す。
自分のために考え、家族のために考え、人々のために考え、社会のために考える。どう頑張ったところで社会の奴隷とならざるを得ない。考えれば考えるほど檻(おり)の奥へと進んでゆくのだ。社会的成功を手に入れた面々は、既に鉄格子が見えなくなる位置にまで進んでいる。檻の中は奥へゆくほど広がっていて快適に作られている。
瞑想は世俗からの逃避ではない。それは孤立的で自己閉鎖的な活動ではなく、世界とそのあり方を理解することである。社会は衣食住以外には与えるところ少なく、それが与える快楽は大きな悲嘆を伴うのが常である。
瞑想はそのような世界を豁然(かつぜん)として離れ去ることであり、人は全的にアウトサイダーでなければならない。そのときにこの世は意味を帯び、天と地はその本来の美を不断に開示する。そのとき愛は快楽の影を宿さない。そしてこの瞑想こそは、緊張や矛盾、葛藤、自己満足の追及、力への渇望などから生まれたものではない、全ての行為の源泉である。
【『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(平河出版社、1982年/サンマーク文庫、1998年)】
瞑想とは檻の中の自分を見つめる作業である。そこから「私」の解体が可能となる。「私」を滅し、死なせることが瞑想だ。「私」は幻影に過ぎない。「私」が昇華し拡散する時、広大な世界が広がる。波紋のように関係性だけが広がってゆく世界だ。瞑想とは、過去に対して死ぬことである。
「私」という点を打ち破った地平に「線の世界」が現れる。集中ではなく、ただ気づくこと。意識を放棄して、ただ見つめること。
高層ビルから地上を見下ろすような、飛行機から下界を眺めるような視点があれば「私」は消失する。「離れる」とは「高度」を意味している。
争い合う人々は議論をするよりも、黙って一緒に瞑想した方がいいよ。きっと。