・精神科医がたじろぐ「心の闇」
・『良心をもたない人たち 25人に1人という恐怖』マーサ・スタウト
・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
・『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
・『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』渡邊博史
・『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
・自閉傾向に関する覚え書き
・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
・必読書リスト その二
日常に潜む邪悪を暴(あば)いた傑作。長らく品切れであったが、やっと増刷された。前半ではカウンセリングで知り得た邪悪な人々を描き、後半ではベトナム戦争のソンミ村虐殺事件を通して「邪悪に加担するメカニズム」を検証している。
本書は2月度の課題図書。原書は1983年刊。アメリカ経済が底冷えし、多くの人々が不安に駆られていた頃だ。その後、プラザ合意(1985年)を経て日本はバブル経済が崩壊(1990年)した。レーガノミックスを引き継いだクリントン大統領が情報スーパーハイウェイ構想という花火を打ち上げ、日本の金融資産はアメリカに吸い取られた。これがグローバル経済の始まりである。こうした背景を踏まえると、時代の変化に先駆けた一書といっていいだろう。人の心と経済とは密接に結びついている。景気の「気」を支えているのは「人の気力」であるからだ。
バブル崩壊後に日本語版が出て、たちまちベストセラーになった事実が興味深い。しかしながら、殆どの読者はなにがしかの被害者意識を正当化する程度の読み方で終わってしまっているような気がする。
まず、宗教心や宗教的概念の薄い我々日本人は「悪」に対する身構えすらない。では、簡単な質問をさせてもらおう。悪の反対は何だろうか?
答えは「善」である。肝心なのは「正義」ではないということ。なぜなら、窃盗団の一員にとっては「物を盗む」ことが正義であるからだ。このように正義という価値観はコロコロと変わる。イラクの正義がアメリカの正義と一致することはない。
では、善とは何か? こう尋ねられると我々はたちどころに口ごもってしまう。
善にせよ、悪にせよ、いずれにしても価値というものは「関係性」の中で生じる。M・スコット・ペックは邪悪の顕著な傾向として「嘘」を挙げている。しかも彼が問題視しているのは些細な嘘であり、微妙な嘘である。虚偽に対して鈍感な人は本書の意味が理解しにくいことだろう。「嘘は暴力に至る控え室である」とパトリシア・エイルウィン(元チリ共和国大統領)は語っている。
小さな嘘、自覚のない嘘が関係性を破壊する。嘘は癌細胞のようなものだ。増殖に増殖を重ねて肉体を蝕む。メディアから垂れ流される嘘が、どれほど人心を荒廃させていることか。
R夫妻の私とのやりとりを注意深く読んだ読者には、彼らが数多くのうそをついていることがわかるはずである。ここにもまた、驚くべき定常性が見られる。これは、彼らが一つか二つのうそをついていたという問題ではない。ロージャーの両親は、くりかえし、また、常習的にうそをついている。彼らは「虚偽の人々」である。そのうそは、いたるところに見られるのである。そもそも、彼らが私に会いにきたことが、ひとつのうそだったのである。
【『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック/森英明訳(草思社、1996年)以下同】
M・スコット・ペックは本書で紹介する人々をソシオパスではないとしているが、期せずしてソシオパスとサイコパスの相違を浮かび上がらせている。
これは厳密に考えると、発達障害にも関わり、軽度の自閉傾向とどのように線引きするかが難しい。社会への不適応が何に由来するのかが見分けにくいためだ。
サイコパスは簡単にいうと、「善悪の概念を欠いた人物」である。一般的には孤独な変質者と思っている向きが多いだろうが実は違う。どちらかというと、魅力的でチヤホヤされる人間の中にいるのだ。そしてサイコパスは、他人を意のままに操ろうとする特徴がある。
私は芸能人の殆どはサイコパスだろうと考えている。正真正銘の本気でそう思っている。プロダクションに支配され、枕営業をこなし、番組ディレクターの指示通りに動く彼等は、サイコパス原理の奴隷であろう。だからタレントとして成功を収めると彼等はサイコパスへと変貌してゆくに違いない。若手のお笑い芸人を見よ。やつらはテレビに出るためとあらば、どんなことでもやってのけるだろう。
本書は前半と後半の構成が絶妙である。個別の邪悪性を暴いてみせた上で、今度は集団や組織で作用する邪悪のメカニズムに切り込んでいる。
集団のなかの個人の役割が専門化しているときには、つねに、個人の道徳責任が集団の他の部分に転嫁される可能性があり、また、転嫁されがちである。そうしたかたちで個人が自分の良心を捨て去るだけでなく、集団全体の良心が分散、希釈化(きしゃくか)され、良心が存在しないも同然の状態となる。いかなる集団といえども、不可避的に、良心を欠いた邪悪なものになる可能性を持っているものであり、結局は、個々の人間が、それぞれ自分の属している集団――組織――全体の行動に直接責任を持つ時代が来るのを待つ以外に道はない。われわれはまだ、そうした段階に到達する道を歩みはじめてすらいない。
企業の業績は社長、部長、課長、係長に分散され、子供の責任は父親と母親とに分散される。集団のヒエラルキーは責任感を薄める。弱められた責任感は傍観者的態度を促す。なぜなら、責任がないからだ。そして集団には常に同調圧力が働いている。組織に逆らう異分子は速やかに排除される。これが組織を構成する原動力である。
組織は一旦つくられると、その目的は「組織の維持・拡大」となる。これが組織の辿る運命なのだ。いかなる組織といえども避けようがない。そして、いつしか組織の伝統や文化や不文律が人々を束縛するようになると、組織は「悪の温床」と化す。その最高のモデルが官僚組織である。
組織は必ず腐敗する。国家も、企業も、学校も、家族も腐敗する。
邪悪を打破するために必要なのは自由だ。つまり、何らかの集団や組織に参加し、不自由を感じている人々は、既に悪に加担している可能性が高い。