古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司

『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳

 ・『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司

『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
『永山則夫 封印された鑑定記録』堀川惠子
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二


 とにかく読んでもらいたい。そして、家族や友人にも読ませて欲しい。衝撃などという生やさしいレベルではない。登場人物全員によって袋叩きにされたような痛みを覚えた。障害者が置かれた現状を知れ! この国に政治家どもが口にするセーフティーネットなんか存在しないことが理解できる。


 著者の名前に聞き覚えのある人も多いことだろう。民主党の衆議員をしていた時に、秘書給与流用の罪で実刑判決(2001年2月)をくらった人物である。山本氏は刑務所に知的障害者が多いことに気づく。出所後に取材を重ねて出版された第二弾が本書である。このような事実がいまだかつて指摘されなかったこと自体が大問題だ。


 タゴールは叫んだ。「人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を、辛抱づよく待っている」(「迷える小鳥」/『タゴール著作集』第1巻所収/藤原定訳〈第三文明社〉)と。詩聖の心に去来したのは、人間扱いされずに虐げられた人々への限りない共感であり、人間が人間らしく生きてゆける世界への渇仰であり、正義が正義としてまかり通る真っ当な歴史への期待と確信であった。だが、侮辱されたまま牢獄で朽ち果ててゆく人々が日本には山ほどいた。

 ある日、満期出所を目前にした受刑者の一人が言った。
「山本さん、俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ。だから罰を受ける場所は、どこだっていいんだ。どうせ帰る場所もないし……。また刑務所の中で過ごしたっていいや」
 再犯をほのめかしているとも受け取られる発言だ。さらに、「俺ね、これまで生きてきたなかで、ここが一番暮らしやすかったと思っているんだよ」と真顔で語る。
 自由も尊厳もない刑務所のほうが暮らしやすいとは、塀の外の暮らしは、障害者にとってそんなにも過酷なものなのか――。私は、彼の言葉に胸をえぐられるような衝撃を受け、同時に、「議員活動のなかで、福祉の問題に関しては自分なりに一生懸命に取り組んでいた」と考えていた自分自身が情けなくなってきた。

 法務省が毎年発行している『矯正統計年報』に、「新受刑者の知能指数」という項目がある。最新の統計結果、2004年の数字で例示すると、新受刑者3万2090名のうち7172名(全体の約22%)が知能指数69以下の受刑者ということになる。測定不能者も1687名おり、これを加えると、実に3割弱の受刑者が知的障害者として認定されるレベルの人たちなのだ。


 2006年1月7日、JR下関駅が放火され全焼。隣接する飲食店など約4000平方メートルを焼き尽くした。福田九右衛門(74歳)による犯行だった。10回目の服役を終え、出所した直後のことだった。放火の理由を「刑務所に戻りたかったから、火をつけた」と語った。著者は福田被告に会うべく刑務所を訪れた。

「刑務所に戻りたかったんだったら、火をつけるんじゃなくて、喰い逃げとか泥棒とか、ほかにもあるでしょう」
 そう私が訊ねると、福田被告は、急に背筋を伸ばし、顔の前で右手を左右に振りながら答える。
「だめだめ、喰い逃げとか泥棒とか、そんな悪いことできん」
 本気でそう言っているようだ。やはり、常識の尺度が違うのか。さらに質問してみる。
「じゃー、放火は悪いことじゃないんですか」
「悪いこと」
 即座に、答えが返ってきた。当然、悪いという認識はあるようだ。
「でも、火をつけると、刑務所に戻れるけん」
 そう付け加える福田被告。頭の中に、「放火イコール刑務所」ということが刷り込まれているようだ。もし最初の懲役刑が別の犯罪だとしたら、その場合は、それと同じ犯罪を延々と繰り返していたかもしれない。


 福田被告は犯行直前に北九州市内の区役所を訪ね、生活保護の申請をしていた。「刑務所から出てきたけど、住むところがない」と何度も言ったが、「住所がないと駄目だ」の一点張り。全く相談にも乗ってくれなかったという。挙げ句の果てに一枚の切符を渡され、追い出される。その切符が、下関駅までの切符だった。福田被告は少年時代、父親から凄まじい虐待を受けていた。


 浅草・女子短大生刺殺事件。レッサーパンダの帽子をかぶった男による犯行。彼もまた知的障害があり、職場で散々ないじめに遭った。前歯が全部折れるほどの暴行を受けたという。父親からも、皮膚が膨れ上がるほど青竹で叩かれた。山口被告の妹は、13歳の時に母親が病死したため進学を断念。家計を支えるために働き通しの毎日を過ごした。事件の直前に末期癌が見つかった。一家を支えてきた妹は、障害者手帳も所持してなければ、障害者基礎年金も受給してなければ、医療費免除の対象にすらなってなかった。当然、生活保護も受けていなかった。「共生舎」という札幌市内の障害者支援グループが支援に乗り出した。後に、58歳の父親にも知的障害があることが判明した。


「病院では死にたくない。最後に少しだけでもいいから、一人暮らしがしてみたい」――そう話す山口被告の妹を共生舎が全力で支援する。主宰者の岩渕進さんが号令をかけた。「自分たちの持つあらゆる力を駆使して、彼女の一人暮らしを支えていこう。体力、知力、根性、金、すべてをとことん注ぎ込む。これは、硬直した現在の医療・福祉行政への挑戦でもある」。凄まじい気概である。本当のセーフティーネットとして窮地に陥った人々を救っているのは、社会福祉法人格もNPO法人格も持たない彼等であった。

「これまで生きてきて、何も楽しいことはなかった」
 岩渕さんは、妹のこの言葉に愕然としたという。彼女は、中学生の頃から家事労働に追われる毎日を過ごし、休日や放課後に友人と遊ぶこともなかったらしい。個人旅行の経験など、ただの一度もなかった。自我を消し去り、家族のために生き続けた25年間。これでは、あまりにも寂しすぎるし、悲しすぎる。
「これからは、目一杯、楽しいことをして暮らそう」
 岩渕さんは、そう妹に呼びかけた。そしてそれからは、彼女を未知の世界へと連れ出す日々が続く。映画館、花火大会、学園祭、居酒屋などなど。ボランティアの学生たちとのパーティーも頻繁に開いた。「東京ディズニーシー」「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」「志摩スペイン村・パルケエスパーニャ」「ジブリの森」といった日本各地のテーマパークにも出掛けた。いつも、酸素吸入用の大型コンプレッサーやストレッチャーを携えての大移動だった。
「はじめは誰にも心を開かなかったあの娘がな、声をあげて笑うようになったんだ」
 微に入り細を穿(うが)つ支援を尽くした岩渕さんは、磊落(らいらく)な笑顔を浮かべ、当時を振り返る。「人生、何も楽しいことはない」と漏らしていた彼女が、「もう少しだけ、生きてみたい」と望むようになったそうだ。


 そんな中でも妹は、兄が事件を起こしたのは自分にも責任があると我が身を責め続けた。妹は、医師の宣告よりも7ヶ月長生きし、多くの人に見守られて亡くなった。

「おいお前、ちゃんとみんなの言うことをきかないと、そのうち、刑務所にぶち込まれるぞ」
 そう言われた障害者が、真剣な表情で答える。
「俺、刑務所なんて絶対に嫌だ。この施設に置いといてくれ」
 悲しいかな、これは刑務所内における受刑者同士の会話である。
 かくの如く、私が獄中で出会った受刑者のなかには、いま自分がどこにいて何をしているのかすら全く理解していない障害者がいた。さらには、言葉によるコミュニケーションがほとんどできない、重度の知的障害者もいる。

 物証は何もない。にも拘わらず、宇都宮地検は9月29日、自白調書のみを頼りに、男性を起訴した。こうして重度の知的障害者である男性が、連続強盗事件の被告人となったのである。
 重度知的障害者は医学的にいって、精神年齢は3歳から5歳程度である。そんな人間を、どう裁くというのだろう。

 この沿革からも分かるように、知的障害者と売春の関係は根深い。我が国では古くより、知的障害者の女性を売春婦として働かせるために勾引(かどわ)かしてきた歴史があり、売春防止法以前の公娼にはかなりの割合で知的障害者がいたといわれる。

 売春するたび、その相手からの言葉に満足感を覚えていたという彼女。そこからは、売春という行為に対する負い目や反省の気持ちはまったく伝わってこない。
 早苗さんが長男を儲けたのは、23歳の時だった。父親はキャバレーの客だった男性だが、子供の顔を見ることもなく、彼女の前から消え去ってしまう。そして結局、早苗さんは母親のもとに戻ることになった。
 私はその母親についての話を聞き、さらに驚くことになる。
 実は、重度の知的障害者である母・夏江さん(仮名)も、早苗さんと同じような生き方をしてきた人なのだ。つまり、この知的障害者親子は、二代にわたり売春婦をやっていたことになる。

 立件された事件のみを並べただけでも、男たちの没義道(もぎどう)ぶりがよく分かる。組織の資金を得るため、彼らがそのターゲットとしたのは、すべてろうあ者だった。おそらく、これだけの非人道的な事件は、ヤクザの世界でも前代未聞であろう。
 が、しかしである。この事件をマスコミが報道することは、ほとんどなかった。また、ろうあ者団体による抗議の声明も出されていない。その理由は、明らかである。実は男もまた、生まれながらのろうあ者だったのである。それだけではない。男が率いる暴力団組織の構成員は、全員がろうあ者だったのだ。

 ところで、内閣府が発行している『障害者白書』の平成18年版によれば、「現在、日本全国の障害者数は、約655万9000人」となっている。その内訳は、身体障害者が約351万6000人(うち聴覚障害者・約34万6000人、視覚障害者・約30万1000人)、精神障害者が約258万4000人、知的障害者が約45万9000人だ。
 しかし、この知的障害者の総数は、非常に疑わしい。
 人類における知的障害者出生率は、全体の2%から3%といわれている。だが、45万9000人だと、我が国総人口の0.36%にしかならない。欧米各国では、それぞれの国の知的障害者の数は、国民全体の2%から2.5%と報告されているのだ。「日本人には知的障害者が生まれにくい」という医学的データは、どこにもない。要するに、45万9000人というのは、障害者手帳所持者の数なのである。現在、なんとか福祉行政とつながっている人たちの数に過ぎない。本来なら知的障害者は、日本全国に240万人から360万人いてもおかしくないはずである。


 いずれも我々が住む国の話だ。政治家の無能と国民の無知が、刑務所と暴力団セーフティーネットにしているのだ。