・芝居っ気たっぷり、名文満載の傑作
・過去と未来
・群衆は一時にどっとあふれ出す異常な力のほうを好む
どうしてこんなに面白いんだ? 200年も前に書かれた小説なのに(原書は1834年刊)。まったくもって信じ難い話である。人間の心理ってやつは多分変わらないのだろう。芝居っ気たっぷりなのはフランスのお家芸である。それが嫌味になっていない。軽やかなステップで踊っている。瀟洒(しょうしゃ)。しかも目を瞠(みは)るような名文、美文がそこここに散りばめられている。オノレ・ド・バルザック、恐るべし。小野ザックというハンドルにしようかしらん。
テーマは理性と感情である。夫のバルタザールはある日、化学の世界に目覚める。それ以降、彼は「絶対」を発見するため研究に没頭する。彼が欲したのは錬金術ならぬ錬ダイヤモンド術であった。バルタザールはひた走る。破滅に向かって。
これを支えるクラース夫人は紛(まが)うことなき賢夫人。まるで女神。今となっては完全な絶滅種といったタイプ。少しばかり身体に障害があるのだが、彼女の慎ましさと奥床しさをより一層引き立てるのであった。
真理に取り憑かれた夫と愛情豊かな賢夫人。破滅と死。そして母から娘へと手渡されるバトン。物語はここから恋愛へと傾斜する。
バルザックの名調子は例えばこうだ――
彼は科学に打ちまたがっていた。科学は彼をうしろに乗せ、翼を張って、物質界のはるかかなたへ連れ去るのだった。
バルタザールは昇竜さながらの勢いで「絶対」に向かって突き進んだ。狂信的でありながらも、ひたぶるな真剣さが読者の胸を打つ。彼は研究に集中した。集中とは一点を凝視することである。虫眼鏡で太陽の光を一点に集めるように。ということは集中すればするほど周囲が見えなくなる。バルタザールの視界からは妻も子も、社交も世事も消え失せてしまった。
古来、宗教者は「絶対」の真理を発見すべく苛酷な苦行に挑んだ。身体を痛めつけることで欲望から離れようと試みた。滝に打たれ、火の中を歩き、座禅を組み続けた。ダルマに手足がないのは、達磨大師が壁に向かって9年もの間、座禅し続けたために手足が腐ってしまったという伝説に基づいている。
求道には狂気が潜んでいる。常に何らかの逸脱がある。それがなければ遊びだ。どこかへ向かい、何かと戦う人物は誰人にも止めることができない。古(いにしえ)の修行者は僧であった。それが今、スポーツ選手や棋士、芸術家や学者などに姿を変えている。未踏の境地に辿り着いた人々はおしなべて「行(ぎょう)を修めた」人々といってよい。
そして特筆すべきことは、そこに反社会性がなければ社会は停滞し、衰退してゆくという事実である。時代の壁を突破するのは反逆者だけなのだ。革命とは運動のことではない。従来の考え方を一変させる「宙返り」の視点に立つことなのだ。
クラース夫人は心労のあまり黄泉路(よみじ)へ旅立つ。そこから、娘マルグリットとエマニュエル青年との恋物語が奏でられる。生死(しょうじ)の鮮やかなコントラストが冬から春の曲へと変調する。
マルグリットはピエルカンが遠ざかってゆくのを見おくりながら、じっともの思いにふけっていた。ピエルカンの金属のように固い声や、すばしこいがしかしバネじかけのような態度や、やさしさよりも奴隷根性のほうがよけいに現われている目つきなどと、エマニュエルの感情をおおい隠している、無言のままながら美しい旋律に満ちた詩情とをくらべてみた。人がどんなことをなそうと、どんなことを言おうと、そこにはある驚くべき磁気が存在するもので、その効果は決して人の期待を裏切らない。
この冷徹な人物描写もバルザックの大きな魅力である。人の心の黒白(こくびゃく)を鮮やかに描き分けることで、物語の色彩は深まる。それも単純ではない。時に白から黒へ、黒から白へとグラデーションが変化するのだ。
マルグリットは、クラース夫人という花から生まれた果実であった。花の命は短いが、確かな結実をもたらした。マルグリットはしっかりした足取りで幸福の階段を昇ってゆく。だが、「絶対」に婿養子入りした父親は変わっていなかった。何ひとつ。
圧巻のラストシーンが深く長い余韻を与える。バルタザールは果たして不幸であったのか、幸福であったのか? 読者は自分の人生をもって答えるしかない。
・浪花千栄子の美しい言葉づかい/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅〈もり・つよし〉、井上ひさし、安野光雅、池内紀編
・新世界秩序とグローバリゼーションは単一国を目指す/『われら』ザミャーチン:川端香男里訳